2018/04/30

2018年4月の雑記

  2018年4月の雑記。(→5月3月


  04/27(Fri)

 新記事:「MSG『メガネフレーム』について」。
  通販で新作が届くまでの時間で、手持ちのフィギュアたちに眼鏡を掛けさせまくっていた。
  残念ながら、眼鏡が合わないフィギュアや、眼鏡を掛けられない(頭髪が邪魔をして眼鏡を差し込めない)フィギュアが多かった。

  文中に「覚悟のうえで眼鏡を掛けさせる」というフレーズを書いてしまって、うん、さすがだ私、頭がおかしい、と思った。

  というわけで『その大樹』が届いたので、週末はこれに専心する。

  特典アイテムパッチを収録しているTG誌も購入した。ディスクには『プリンセスパーティー』も収録されているとのことだが、キャストは、えーと……五行氏に佐々氏、榊氏がヒロイン役で出演されているという贅沢なゲームだった。これも後でプレイしよう。


  Surprisingly, the language of my Blogger editing page was changed to English! Why?
  I am sure I did nothing special about it.  Though I have no difficulty in using Blogger under the current environment, I feel uncomfortable with it. So I managed to take back the former condition as yesterday.  I could alter the language on the page "Language and formatting" under "Settings".  ← Sorry, it may be incorrect.  It seems it is for the language of date of pages shown to the visitors, not for the editing process shown to administrator of the blog...
  I am worried whether someone took over my account.
(blggrの表示言語が英語になっていて驚いた。何かした憶えは無いのに……。実用上は別段支障無いとはいえ、不気味なので、「設定」→「言語と形式」の欄で言語を「日本語」に指定し直して、元に戻した。まさかアカウントの乗っ取り[不正介入]とかじゃないだろうね……。)

  ちなみに、ドロップダウンリスト内の表示言語は日本語だった。どうしてここだけ……。

  せっかくの機会だからと、ふたたび言語を英語に戻したりフィンランド語(Suomi)を選んでみたりしていたら、あっ、また英語のまま、日本語に戻らなくなっちゃった……。
  もう一方のブログを見ても英語のままだから、blggrアカウント全体の設定の問題かも。


  相変わらず声優さんの誕生日をちっとも憶えていない私だった。
  たしかに私自身には何も関係のない日付だし、歴史上の芸術家の「生誕○周年イベント」とか「没後○周年企画」というのと同じくらいには無意味な区切りなのだけど、しかし、友人やファンが当人に対して何か肯定的なことを堂々としてあげられるという、社会的に認められた機会が存在することは、それはそれで良いのではないかと思う。そして、友人が誕生日パーティーを開くことは、本人にとっても嬉しいだろうし、多くのファンがSNSでほんの一言お祝いのメッセージを送ったりすることは、とりわけ人気商売の側面のある芸能人としては心強いだろう。


  今回の『開田さん』は、害虫ネタ+特撮ネタと、木々津氏の十八番コンボが見事に決まってたいへん素晴らしい。見開きでの怪談話もうまく調子が乗ってきている。


  あ、あれ……なんだかblggrがひどいことになっている。
  「majoumap」というタイトルで、『その大樹』マップ&ユニットの下書きを書きかけで置いておいたのだけど、その文面がすべて消えて(!)、本文がmajou.htmlと同じになっちゃっている……。致命的な問題が3つも発生している。
1) majoumapのテキストがすべて失われた。
2) majoumapの下書き記事が勝手に公開された。
3) majoumapの文面がmajouのものに置き換えられた。

  ……あ、もしかしたら他にも影響が及んでしまうかもしれないので、このブログの最新のバックアップを取っておいて、ページ更新は控えて様子見をすることにする。テキストが元に戻るかもしれないので、文面ダブりのmajoumapもさしあたりそのままにしておく。どうしてこんなことに……。

  不安は残るが、編集画面の言語も日本語に戻ったし、また通常のペースに戻ろう。



  04/24(Tue)

  Triangleの新作、久しぶりに買ってみようかな。(リリー役は心配だけど。)
  フルプライスの場合、ほんの1本飛ばすだけで18ヶ月(1年半)のブランクになったり、2本買わずにいると30ヶ月(2年半)ぶりになったりする。


  思うところあって、先日の文章を削除。腕時計の代価にイラストを描かせるのは、PR手法としてはたして適正なのかという疑念が強まったので。


  「STP 轟け」が、wmvファイルをサーバ上に置く形式から、youtube公開の形になってしまった。
  データをDLして柔軟に聴けるようにしていてほしかったな……(※これまでも、htmlソースから音声ファイルのURLを辿る必要があったけど)。バックナンバーを探してアクセスする際にも、手許のPC上でファイル一覧として見るのと比べて、ytのインターフェイス上で探さなければいけなくなる。データディスクとして販売されるのも、この分だと、250回分≒10年以上待たなければいけない計算だし。音質は同等水準のようだけど……。
  とりあえず、後からでも聴き返せるように、概要記事にハイパーリンクを記入しておくようにしよう。しかし、もしも(意図的にまたはミスで)コンテンツが削除されてしまったら、とりかえしがつかなくなってしまうのだけど。
  もっとも、現代のwebラジオはすでに大半がそういう仕様か、あるいはもっと儚くて、「常に最新分しか聴けなくて、バックナンバー販売も行われない」とか「生放送のみで終わってしまう」ということも多い。全体としていえば、人々の言葉がこれほど大量に記録(音声媒体や文字媒体)に残されている時代は無いのだが、それでも局所的に見れば事程左様に人類が発する言葉は依然として儚く刹那的なものであることが実感される。

  アクセス人数も可視化されたわけだが、常連リスナーは百数十人くらいのようだ。STP関連では最もアクセスが少ないであろうことを考慮すると、STP本家は200人を超えるだろう(※「轟け」のみを聴いてSTP本家を聴かないということは考えにくいが、その逆は十分ありうる)。
  「胃~之煮」も、100人強くらいだろうか。同じくyt公開されている「まじすか」の視聴回数と引き比べて考えると、「まじすか-(あおき氏ファン&相本氏ファン)+(中國氏&西垣氏ファン)+(STPからの流入)」で、そのくらいになるかと思われる。


  「アーバレスト」というと、私としては『王賊』の主人公ジン=アーバレストが思い浮かぶので、模型店で「アーバレスト」(ロボット)のキットを目にすると、ギョッとすることがある。メカアーバレストなどと言ったら、「俗王」(公式パロディMAD)に登場しそうだ。


  SHCのキャラクター辞典(キャラ一覧のExcelリスト)は、すでに2800行に及んでいる。おそらく次作あたりで3000行に達すると思われる。今作の一文字略記は、「樹」ならばたぶんダブる可能性は低いだろう。
  各キャラクターのステータス(妄想)は、『BB1』までは全て書いていたが、『雪鬼屋』『門』は主要キャラだけになり、『BB3』以降は完全に空欄のままにしている。



  04/23(Mon)

  先週末は関西でも室温27.5度になっていた。HDDには高温はダメージになりうるし、まめにバックアップを取っておこう。今週末には新作ゲームがたくさん届いて、普段よりも激しくPCを使うことになるだろうし。

  『その大樹』は、おそらく侵攻対象を選べるくらいには分岐がありそうだが、イベント分岐についてはたぶん総合wikiの匿名の超人たちがいろいろこなして下さるだろうし、配下ユニットに関しては、『勇者砲』並の扱いだとすれば、成長パターンなどを細かく調べなくても済みそうだ。集団戦闘なので、敵ユニットのアイテムドロップを個別に確かめるのもちょっと大変だし。
  『アウトベジタブル』『悪魔娘』のようなスコアアタック要素は無いだろう。やりこみとしては、「最速クリア(最少ターン)」がありそうだ。配下ユニットの周回引き継ぎがあるならば配下の戦力次第になってしまうが、「一周目状態(引き継ぎ無し)での最速クリア」という条件設定もある。あえて挑戦するとしたら、そのくらいだろうか。
  ……というわけで、今回は攻略情報整理にあくせくせずにスムーズにプレイできたらいいな。


  あっ……この名前のブログの管理者である私は、まさにLord of Dawn(黎明卿)になってしまうのか。森川ヴォイスの気分で、「あなたは(読みづらい文章を)押し付けられる側です。なるべく耐えて下さいね」とか言えばいいのか。元々は「光さす庭」のつもりの命名だったけど。

  英文のファンダムwikiを読んでいたけど、「成れ果て」はそのまま"narehate"なのか。「ネーアヘイトって何だろう?」と単語を調べかけてしまった。正式な(ライセンスを受けた)英語版は、いつものSeven Seas Entertainmentから、ようやく2巻が発売されるところらしいから、英語圏ファンサイドの非公式な訳語と思われるが。
  [ madeinabyss.wikia.com/wiki/Narehate ]:ここではNarehate(or "hollow")とあり、「本来の形姿や人間的な本質を失って『虚ろ』になった存在」といったほどの意味合いで捉えているようだ。「虚ろ」というと分かりにくいが、日本語に戻すならば『(空っぽの)抜け殻』の語を当てると良さそうな感じ。中身の人間性を喪失した姿なわけだし、これはこれで面白い訳語かな。
  The word "narehate" comes from the term "nare no hate" (成れの果て) which means "the shadow of one's former self".と書かれており、「『成れ果て』とは、『かつての自身の残滓』という意味の『成れの果て』に由来する」という理解なのだが、うーむ、日本語の理解として、合っているような、ちょっと違うような、びみょーな感じだ。日本語の語義からストレートに英語で表現するなら、「the ruined state(崩壊した状態)」とか「critically degenerated consequence(致命的に悪化した挙げ句の果て)」あたりになるのではなかろうか。

  [ madeinabyss.wikia.com/wiki/Prushka ]
  プルシュカの記事で、彼女の性格に関するくだりがすべて過去形になっているのも痛ましい。例えば、Prushka was a cheerful and amiable girl who loved her adoptive father very much.(プルシュカは、人懐っこくて元気な少女で、養父を深く愛していた)といったように。


  日本人が良いとか駄目だとか、あるいは外国人は良いとか悪いとか言うつもりはないが、最新のオタク系作品に関してすら、
  1)日本語のwebページには存在しないような詳細な記述が、英文記事に存在するというのは、わりとよくあることだし(もちろん日本語の方がはるかに充実していて、他言語ではほとんど存在しないという場合も多い)、
  2)英文で検索する方が、そうした情報を得るうえで効率的である場合もわりとあるし(※ggl日本語検索は関係の無いページばかり拾いすぎる)、
  3)読む側としても、英文で読む方が冷静に読めるし、あるいは英語(つまり原作から翻訳された言語)を通じて理解することで多面的な捉え方が刺激されるというメリットもある。

  日本語版wkpdはオタク系の記事ばかりが活発に更新されているというのはよく言われているが、言い換えればwkpdに書ききれる程度の形式的概括的皮相的な情報にすぎないし、それ以上の詳細な情報や作品解釈の交流および蓄積は、現在では英文コミュニティでも十分活発に行われている。日本語(つまりここでは原作の言語)で読み、日本語で語ることができるというのは、他言語でアクセスする人々に比してとてつもないアドヴァンテージなのだが、そのわりには悲しいほどに、日本語での解釈的テキストの蓄積は、薄く、浅い。

  もっとも、逆の立場でも、例えば「中国人(現在の中国国籍者や中国語話者)のほとんどが知らないようなマイナーな三国志の人物を、わりと多くの日本人が知っている」といったように、局所的に知識の逆転現象が生じることはわりとある。また、例えば「作品解釈に向ける言葉よりも、ファンアート作成の方に多大な労力が振り向けられている」といったように、関心の向け方やリアクションの表し方が文化圏によって異なる、という側面もある。だから、ある一面だけを取り上げて全体的な優劣を論じるのは公平ではない。
  ただ、ねえ、受け手たちの解釈を突き合わせつつ整備して形に残せるような場が、日本語環境でももっとたくさん作られるようになってくれると嬉しいのだけど。汎用SNSや2ch/5chでは、そういう議論の蓄積が整理されないままどんどん流れていってしまうばかりだ。ゲーム攻略では、wiki形式で詳細な情報を系統立ててブラッシュアップしていく慣行が普及しているものの……。大量のユーザーがその場限りの感想を書き流していく活発さはそれはそれで良いものだが、マニアによる丁寧な読解の記事が埋もれてしまったり、あるいはそもそも存在しなかったりするというのは、あまりにも残念な状況だ。


  「製品情報」欄のスタッフ情報は、画像化しないでくれよ……。テキストのまま表示してくれれば、原画家や脚本家の名前をすぐにweb検索して関連情報を浚えるのに……。
  キャラクターページで担当声優名まで画像化されているのは、ヴィジュアルデザインの整合性からしてやむを得ないこともあると思うので諦めている。


訪問者の目を楽しませるために、たまには眼鏡画像をこちらにも貼っておこう。「朱羅・弓兵」。モティーフとしては、「メカ少女」も神秘的な「巫女キャラ」も野性的な「ケモ(狐)キャラ」も眼鏡との相性はあまり良くないが、とにかく可愛ければいいんだよ!
こちらは同シリーズの「忍者」。アウトドア系アクションキャラの「忍者」デザインも、眼鏡との相性は良くないのだが、それでも、ククク……私の下では眼鏡キャラになってもらおう。小顔すぎるので眼鏡が目立たないのは残念。
「弓兵」用塗料の余りを使って「ミニクーパー」を作った。表面処理も何もしていないが、この程度ならば一日かからずに全塗装完成させられるのか。自動車模型も楽しいかも。

  こうしてクーパーを識別できるようになったところ、近所にクーパーを置いている車庫を見つけたので、不審がられない程度に眺めてきたい。


  『素晴らしき日々』のヴァージョンアップ版が出るのか。……そうか、西田こむぎ氏出演の新作が出るのか……。(そうだけど、そういうことじゃない。)


  (思うところあって、文章を一つ削除した。)

  ちなみに、プラモデル分野も、「良いキットを作れば、購入したユーザーたちが喜々としてそれをさらにブラッシュアップして、とても魅力的な完成状態に仕上げて、SNSにアップロードして拡散してくれる」という効果があり、その意味では現代的SNS環境はプラモ業界にも好都合なはずだ。また、完成品フィギュアやドールにも同じ仕組みが当てはまる。
  ただし、プラモデルの場合は、1)実際に作るのは大変だし、ましてやハイクオリティに仕上げるには、制作スキルだけでなく、金も労力も時間も掛かる。また、2)スケールモデルの場合は、分野特有の表現文法や評価基準が一般人には分かりづらいので、「写真を見さえすれば誰もが素晴らしいと感じる」というわけにはいかない。さらに、3)きれいな写真を撮るのにもコストとスキルが必要なので、そう簡単にはいかない。もっとも、まったくの無意味ということは無いだろうし、すくなくとも顧客層の裾野を広げる作用は果たしているだろう。
  完成品フィギュアの場合は、制作面でのハードルは無いが、その代わり、1)少量生産であり、しばしば予約商品なので、後からでは入手しづらい(発売即完売になっていることも多い)。2)高額商品であり、展示スペースもとるので、どれだけ魅力的な写真を見たとしても、手を伸ばしにくい。ドールは、さらに購入のハードルが上がる。
  ……まあ、近年のハイクオリティな美少女フィギュアとか可愛らしいメカ少女プラモだったら、良い写真を見せてやればわりと簡単に引きずり込めるんじゃないかなあクックックッ、という邪な思いもあるけれど。

  ただし、実際には、美少女プラモやフィギュアの写真は、SNSでもほとんど拡散されていない。イラストと比べて、不思議なまでの落差があるようだ。原因は分からない。2Dと3Dの違いということでもないだろうし、元ネタの有無の問題でもなさそうだ。何故だろう? 人々が(無意識的に)習慣づけられているかどうかの違いにすぎないのか、それとも何か大きな事情の違いがあるのだろうか。


  ベッドシーンの一枚絵で、メガネキャラが外した眼鏡が脇に――布団の上などに――放り出されているのには、どことなく背徳感を覚える。眼鏡を外すのが駄目という話ではなくて、普段着けているものを外しちゃっているという雰囲気とか、デリケートな器具である眼鏡を乱雑に放り出しちゃっているという事実から暗示されるその場のムードとか。要するに、下着を脱ぎ捨ててあるのと同じような、フェティッシュな淫猥感がある。
  (いったいおまえはどこまで眼鏡基準で思考しているんだ、とか言わない。)
  (私は常に眼鏡越しに世の中を見ているからな![おばか])



  04/21(Sat)

  blggr編集時に「作成」表示から「html」表示に切り替えてまた戻すと、何か文字入力する度にこのタブ全体がパッとちらつく(再読み込み?)ようになっていて鬱陶しい。使用ブラウザはfirefox。最初にページ再編集画面を開いた時点では、このような瞬きは発生しない。だから、さしあたりの対応として、「htmlタグなどを入力するためにhtml表示に切り替えたら、いったん作成表示に戻して編集確定し(つまり公開データとして「更新」する)、もう一度そのページのを再編集に入り直す」という対処をする羽目になっている。この不具合、早く直してくれないかなあ。
  ブラウザやヴァージョンによっては挙動が違っているかもしれないが、確認していない。


  【 アニメを観る人々 】
  いわゆる「(二次元系、萌え系の)オタク」の、おそらくほとんどが定期的にアニメを多数視聴しているという現在の状況は、歴史的にみれば珍しいものではないかなあ。例えば90年代頃には、アニメを観ているのは本当に「アニメが好きなアニメオタク」と低年齢層くらいで、それ以外の人はせいぜい『ガンダム』シリーズくらいのきわめてメジャーなアニメを観たり観なかったりする程度だったかと思う。深夜アニメも、90年代末頃になってようやく現れた新しいスタイルであり、しかも当時はまだまだ人々の就寝時間は早く、世間の営業時間ももっと短かったので、現在ほど一般的なものではなかったと思う。個人的にも、90年代頃はレンタルビデオ店(※当時は本当にVHSビデオテープだった)でアニメコーナーに足を踏み入れるのはなんとなく後ろ暗い気分があった。もっともこれは、私のごく狭い見聞範囲だけの話だから、そうではないところも多かったのかもしれないけれど。

  もちろん、レンタルビデオ業は早くから成立しており、90年代には店舗数もたぶん現在と遜色ないくらいに増えていたから、アニメへのアクセス機会は多かった。また、いわゆる「大きいお友達」向けのアニメも、90年代後半には増えていたと思う。例えば『セーラームーン』シリーズは1992年から、『カードキャプター』は1998-99年。『プリキュア』シリーズは2004年から。また、コミカライズ版などを含めたメディアミックスアプローチも、90年代末頃から急激に発展し浸透していった。また、「オタク」=「アニメを観ている人」というステレオタイプも、80年代中からは広く存在していたと思う。

  現在では、ほんとうに多くの人々が、ごく普通のこととして(深夜)アニメを楽しんでいるようだ。もちろん、日本国内全体でみれば、アニメを観ない人の方が圧倒的多数だが。オタク系趣味の中でアニメ分野がこれほど大きなプレゼンスを持つようになった(ように見える)のは、
  1) アニメに対する偏見が除去されていった、
  2) オタク的趣味を持つ人が増えた、
  3) オタクの間でもアニメを観る習慣が定着した、
  4) 録画予約やネット視聴などのアクセスしやすい環境が整備されてきた、
  5) 宣伝媒体としてTVは強力であり、特にメディアミックス時代に有効利用されている、
  6) SNSなどではアニメ視聴行為が特に可視化されやすい、
といった様々な要因があると思われる。

  同様に、「2018年現在は、日常的にゲームをプレイする人が、歴史上最も多い時代だ」と言うこともできるかもしれない。もちろん単純な人口規模の問題もあるし、新媒体たるスマホゲームを含めれば、ゲーム人口は増えているだろう。その一方で、インドア派の芸術趣味でも小説人口、漫画人口、あるいは音楽人口や模型人口、映画人口、美術館人口、等々は、市場規模(経済規模)において最盛期だと言えるかどうかは難しい。売上統計だけでは測れないところもあるし、趣味もグローバル化しているから一国のみのデータでは測りきれない向きもある。


  もう次の週末にはSHC新作が発売されるのか……気持ちが浮ついてしまう。


  プルシュカって、プルチネルラ+ペトルーシュカみたいな名前だなあ。しかも可愛い。
  もっとも、「~シュカ」は現実のロシア語によくある人名呼称語尾だが。だから、現実ベースの言語感覚で捉えると、いわばロシア語で「ペトラ(=ピーター)ちゃん」と呼んでいるように聞こえる。


  たんじゅんなさんすうのはなし。
  確率1/1024の試行を1024回行った場合、所期の結果を得られる確率は、
  1-(1023/1024)^1024=0.6323…
  ざっと63%になる。これは1024回目までに確率1/1024の結果を一度以上引き当てる可能性ということでもあるから、もっと早く切り上げられる場合もあるし、もちろん1024回まで試行して2回以上その結果を出すこともあり得る。1024回というと、一回の試行につき1分掛かるとしたら、17時間以上になる。SLGタイトルの実験なりアイテム収集なりのために行うには、時間が掛かりすぎる。一回につき10秒であれば、1024回実行するとしても3時間弱で済むが。
  ちなみに、一回につき1/1024の確率である場合、2000回試行すると85.8%になるし、さらに90%を超えるには2357回以上繰り返す必要がある。50%を超えるのは710回。

  ただし、デジタルゲームの場合は、乱数テーブルや乱数の処理によって確率が偏ることがあるし、場合によっては一定のタイミングで乱数固定されることすらあるので、単純に同一セーブから繰り返しても想定どおりの確率になるとは限らない。例えばalicesoftでは、セーブ時点で乱数が固定されており、ロードしてやり直しても再開直後のサイコロの出目が変わらないというものが多い(例えば『エスカレイヤー』)。RPG作品でも、何歩移動したら敵エンカウントするかが決まっていて、セーブ&ロードしてやり直しても歩数が変わらないということがある。
  それどころか、プログラム上の設計によっては、各試行が独立ではない場合もあり得る。典型的には、RPGで「n回連続で逃走失敗したら、その次は必ず逃走成功する」というような仕様のことだ。確率の自然な挙動の範囲内でも、極端に不運なユーザーが出てくることはあり得るし、厳格な確率的公平性がゲームとしての醍醐味にはつながらない場合も多いので、意図的に確率を均すような追加的処理を挟むのは好ましいことだ。例えば、1/1024の確率の事象でも、5000回試行しても成功しない確率は約0.76%ある。言い換えれば、「10万人がプレイすれば、5000回までチャレンジしても救われないユーザーが750人以上発生する」ということだ。これは無視しにくい数字だ。そしてもちろん、1000回程度の段階でも、まだ約37%のユーザーが成功しないままでいる。

  アナログメディアの場合でも、例えばサイコロの重心の微妙なズレによって確率が偏ることはあり得る。それを避けるためにサイコロの目の穴を埋めている精密ダイスもある。

  心理的な問題としては、1/256くらいの確率でも、くりかえしチャレンジして失敗し続けているうちに、「ちゃんと条件が合っているのだろうか」、「乱数の範囲内では成功しないのではないか」、「情報や推測が間違っていたのではないか」といった疑いが湧き上がってきてしまうものだが。ましてや、それ以上にシビアな確率の事柄だと、迷いを生じて心が折れる可能性がある。ほんの数百回程度の試行では、成果が得られないのがむしろ自然なのだが。例えば1/1024の確率の挑戦の場合、300回では成功確率は25.4%、500回でも38.6%にしかならない。ほんの100回も連続失敗するとかなり精神的な負担が強まるが、100回程度では成功確率は9.3%しかない。


  ブックマークを見ていたら、モデラーさんでYahooブログを使っている方がちょっと目立った――ファビコンだからね――ので仕様を調べてみたが、「レイアウトに制約がある(テンプレートからの選択のみ)」、「広告は消せない(有料ユーザーでも駄目)」とのことで、明らかに私向きではなかった。レイアウトはともかく、意図せぬ広告や気持ち悪い広告画像を、私も見たくないし、訪問者に見せたくもない。

  このブログでは、可愛らしい美少女キャラ(画像や模型写真)と、たまにプラモ完成写真が載るくらいで、神経に障るようなものは視界に入らない筈。以前の触手記事の引用画像あたりは、ひとによっては不快感を覚える可能性があるけど、許容範囲内だと思う、たぶん。
  (手前ぇの文章が暗いとか言わない)



  04/19(Thu)

  えっ……あの榎津氏が桃組に!? 旧聞に属する話のようだが、びっくりした。
  榎津氏の出演作は、私がプレイしたのは、えーと、2015年の『エクセルキトゥス』あたりまで遡ってしまう。小器用にいろいろ出来るというタイプではないと思うけれど、忘れがたく強い印象を残す芝居をされている役者さんだ。


  黒いことを書くためのページを作る方がよいかもしれない。
  この雑記欄では、憤懣交じりのコメントをすることはあるが、それでも、あくまで物事の正不正に関わる客観的な議論として、根拠を伴いつつ公平に書いているつもりだ。嫉妬怨恨のような個人的感情に由来することは、ここには書かないようにしている。しかし、この世の中に生きているかぎり、不当な被害や解決のしようのもない苛立ちが生じることは避けられないし、そうしたことに対する愚痴ややり場のない怒りを実際に文章をとして書く(書き捨てる)ことは、それはそれで精神衛生上役に立つ場合もある(さらに悪化する場合もあり得るけど)。


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  たくさんRTされているようだけど、無断転載なのでは? 「良いことを言っているから」、「素晴らしいことを拡散しているから」というのは、無断転載行為を免責しない。それなら、「友達を楽しませてあげたいから」の転載だって同じことだ。もしかして元画像[漫画]の作者が転載許可しているならばよいが、ざっと調べたかぎりそういう形跡は無いし、出典も示されていないから原典を辿れない。学者やライターなど、そのあたりにセンシビリティのある人々ですら、このあからさまな無断転載行為にはぶっ通しで、漫画の内容について素朴に賛意を述べていたりする。この漫画が主張していることは確かに示唆的だけど……。最近では、新聞や雑誌の記事を画像にして丸々転載(twにアップロード)している例も非常に多いが、それらは(引用として正当化されるのでないかぎり)全部アウトですよね?
  規範としての無断転載禁止を頭では理解していても、「好きなクリエイターさんのイラストが、よく分からない奴に無断転載されている場合のみ、あしざまに咎め、その一方で自分たちにとって好ましいものであれば、無断転載であることを無視して拡散に加担する」というのは、恣意的で利己的で不公正な内輪姿勢だ。好きなクリエイターでなければ、政治的に重要な話題であれば、縁遠い外国の誰かがweb公開している写真であれば、文句を言ってこないような相手ならば、自分たちの利益に関わらないならば無視し、逆に好きなクリエイターさんが悲嘆の声を上げた時や自分の業界の利益が損なわれる時だけは一緒になって無断転載を厳しく指弾する、そのような人々の言葉は信用できるだろうか?
  先月twに行っていた際に、せめて一言でも言っておくべきだったか……。

  このブログで画像引用する際は、正当な「引用」の要件を満たすように努めている。完全にクリーンであるかどうかは難しく、とりわけゲームの視覚的演出や漫画のコマ組みを主題にしている場合は画像枚数が増えてしまいがちだが、1)研究・分析のための引用という目的の正当性要件、2)引用画像を示すべき必然性要件、3)本文が「主」であって引用画像は本文を補強する「従」であるというウェイト要件、4)出典(元作品)を明記するという出所明示要件は満たすようにしている。画像引用なので、本文と引用部分の識別性は事実上問題にならないが、画像の場合はスクリーンショットに対して圧縮以外の加工改変を行わないという要件になるだろう。
  本文と読み比べるだけでもどのタイトルの画像であるかは明白であろうが、メーカー(作者)と発売年をきちんと併記することは、単なるマナーの問題だけではない。出所明示は、引用された元コンテンツの権利が本来誰に帰属していたかを示すためでもあり、また、読者にとってその引用部分の元コンテンツを辿って確認できるようにするためでもあり、さらには発売年などの情報を提示するという意味で本文の理解を深めることにも寄与する。


  まじすか#67。栗きんとん+生クリーム+リッツとは……想像できない。

  「まじすか」ラジオでの笹島氏は、「胃~之煮」の時のようなシュールなネタを展開することも無いし、爆発的な笑いのジャックナイフで斬り込んでくるというよりは、話題を面白く広げていくことに専心しておられるようだ。有り余るパワーの一部を、トークをうまくドライヴしていく注意力に割いているようで、そのおかげで三人の会話が非常にスムーズに展開している。そういうバランスの取り方と会話のコントロールの仕方が絶妙で、しかも話題の接ぎ穂の入れ方もやたら上手い。なんという才人ぶり。
  そして、ふりかえって「胃~之煮」がどうしてあんなにとんでもないことになっているのかというのも、あらためて不思議だし、そして、そちらはそちらでやっぱり面白いと思う。本当に後先考えないネタをぶつけて一人で大笑いして、後始末は中國氏に任せていたりするのだけど、そういう豪放磊落な自由さは貴重だし、それを巧みに掬い上げる中國氏の手腕も面白いのだ。
  続・胃~之煮#8(16:00-)の「年末隠しきれない芸大会」あたりは、物凄かったからね……。最寄りの河川敷で突発的に大会が開かれるとか、三途の川代表が西垣氏だとか……。


  『のんびり農家』漫画版は、単行本でまとめて読んでみたら、わりと良い感じだった。当初web版で読んでいた時は、のっけから黒背景進行が十数ページも続いて、たいそう心配したものだったが。剣氏の画風そのものも鄙びた落ち着きがあり、コマ組みもおおらかなのが、原作の牧歌的な雰囲気に合っている。この作品のコミカライズ版が、もしも仮に、いかにも今風に尖ったケミカルな画風で、キャラクターもあざとい色気満載で描かれていたとしたら、それは興趣を削ぐものになっていただろう。背景作画も、過不足ない程度に描き込まれており、山村開拓生活のムードはきちんと表出されている。
  ちなみに、まともな人語による会話科白は、100ページにならないと出て来ない。それまでは、主人公のモノローグと、魔狼一族や大蜘蛛への一方的な語りかけのみ。テキストはほぼ原作(小説版)のままだが、こんなモノローグだらけのテキストをよくも漫画にしたものだ……。


  オタクが歩けば金が落ちる。帰宅途中にその筋のお店を回っていると、買いたいものがどんどん出てきてしまって、もう本当に困ったものです。(喜色満面)


  『少女終末旅行』は、巨大構造物ものとしては『エイリアン2』に匹敵するクラスのありがたい作品なのだけど、アニメ版はちゃんと原作(漫画版)が完結してから作ってほしかった――そして原作と同じく旅の終点までを描いてほしかった――という憾みもある……のだが、アニメ版の最終話もこれはこれで悪くないところでうまく切り上げているので、こういうのでもいいかなあとは思いつつも、それでもアニメの12話(or13話)区切りの融通の利かなさにもモヤモヤするところもあり……という諸々のアンビヴァレンツがある。
  アニメ版の『公式設定資料集』(80頁)には、例の独自文字が「終末文字」と称して一覧で載っている。これはいろいろと捗るな!


  良い絵を描かれるなあと思ったイラストレーターさんのSNSアカウントを見てみたら、性差別的偏見や隣国嫌悪発言や政治的陰謀論で真っ黒に染め上げられていたとしても、「あらあらうふふ」と軽くいなして、「芸術は芸術、政治は政治」と切り分けて受け止めることはできるけれど、それでも気持ちの良いものではないし、さすがにくりかえし見に行こうとは思わない。
  その人物は、現実の女性一般に対して憎悪を抱きつつ、同時に可愛らしい架空女性キャラクターのイラストを描いていることになるが、それはそれで現実の他者と観念上の人間的存在とを切り分けているのだろうから、心理的にも論理的にも矛盾してはいないのだろう(――それどころか、両者が当人の価値観の中で連動しているということもあり得る)。実際、そのクリエイターさんが描いている女性キャラクターたちのイラストは、おっとりした温和な表情を湛えつつも、生き生きとして楽しげなポージングを披露していて、端正でチャーミングな絵に仕上げられている。



  04/17(Tue)

  映画などのインタヴューで、日本人(あるいは日本向け)記者が作品内容に踏み込まず、当たり障りのないことしか尋ねないのは、君たち日本人(日本語雑誌購読者)が「ネタバレ」を嫌がるからでしょう、と思う。記者が作品のディテールに関する立ち入った質問をしたら、「まだ観ていないのに、ネタバレされた、配慮がない」などと不平を上げる人が出てくるだろう。愚かなインタヴュー文化は、愚かな作品受容文化の鏡映しの存在だろう。SNSなどでも、新作の内容に触れる投稿をした知人に対して「それはネタバレですから良くないですよ」などとお上品な指摘をしあっているような人々には、ちょうどお似合いのインタヴュースタイルではなかろうか。手前等のしていることを棚に上げて記者だけを批判しても何も変わるまい。

  いまだにネタバレ嫌悪などという非文化的な内輪因習に浸かって「いいぞ」のシュプレヒコール連呼しかしないような人たちは、作品を封殺し、文化を圧殺しているに等しい。SNS環境も、お互いの解釈を突き合わせて作品理解を深めていく場というよりは、まだ読んでいない(視聴していない、プレイしていない)人たちのためだと称してお互いに沈黙を保とうとする相互抑圧の場になっているようだ。しかもそうした抑圧を、「ネタバレしないのが良いマナー」だとして内面化すらしてしまっている。芸術よりも、知性よりも、仲間内での気持ち良さを確保することが最優先される。ああ、これはまさに通念的な悪しき日本人文化そのものだ。
  例えばミステリを読んでいる最中の人に対して頼まれもしないのに真犯人を教えてしまうような悪意ある行為と、作品理解を深めるためにそのディテールを取り上げて具体的に論じる行為とを、区別することができないわけではあるまいに、「ネタバレ」という雑な一言で両者を等し並みに禁圧しようとするのは、本当に愚かな振舞いであり、致命的な悪習と言うほかない。
  また、事前情報のない白紙の状態からの初読初見の衝撃ばかりを過度に重んじるのも、素朴すぎる。そのようなナイーヴな姿勢は、知性を、技巧を、再読の深みを、多面的な読解を、すべて放棄する方向にしか向かわないだろう。

  作品解釈ではなく、作品に出てくる小ネタをつつき回すことばかりに汲々とするような(例えば、描かれている風景のロケ地探しや、小物の機種名当て)、木を見て森を見ないマニア趣味は、また別の問題として。

  オタク系分野でも、ゲーム開発者や声優へのインタヴューは、インタヴュー側が相手に対してごく短くおおまかな質問を投げかけて、本人にひたすら語らせるというスタイルが基本になっている。要するに、「原作の印象はどうでしたか」「最終話についてはどうですか」といったような、概括的なものだ。特定タイトルの特定のシーンに言及することもあるが、質問者が前面に出るような姿勢になることは少ない。作者の意見を、正しい解釈の源泉として特別視しすぎているのではないかという懸念もある。


  [ www.confiture-soft.com/products/rhapho/ ]
  変身時のみのようだが、モノクル(片眼鏡)とは珍しい。『グリンスヴァール』のヴィヴィを初めとして、モノクルヒロインは他にも何人かいるけど。


  花澤氏のお声に、なにか記憶が触発されると思ったら、そうか、安玖深氏か。安玖深氏のお声に鷹月氏の闊達さと萌花ちょこ氏の親密さをちょっと混ぜたような感じっぽい。クリエイターのお仕事に関して、誰かに「似ている」と喩えるのは失礼なことだが、そうではなくて認識の手掛かりとして、安玖深氏の芝居と比較するとそれぞれの特徴がはっきり掴みやすくなるかもしれないという意味では、こういう思考もありだと思う。


  ソフトハウスキャラで企画&脚本を続けてきた内藤騎之介氏は、要するに架空世界での生活をシミュレートする思考実験に十数年ずっと専心していたわけだから、彼が筆を執った異世界シミュレーション小説が細部までクリアに描かれていて、物語展開の長期設計もきれいに出来ているのも、むしろ当然なのだった。小説媒体としては『のんびり農家』が(おそらく)初めての作品だが、架空世界生活シミュレータ的ゲームの企画&脚本を00年頃から続けてきたキャリアを込みにすれば、日本中でもトップクラスの「異世界シミュレーションもの」のベテランだと言ってよい。
  ただし、アニメ化(映像化)やCDドラマ化はしづらいだろう。美少女ゲーム畑出身のわりに、地の文が厚めで会話進行はかなり素っ気なく、しかも、その地の文に滲み出るユーモアの味わいこそが面白いというタイプだからだ。村内ののどかな風景が映像化されたら楽しそうではあるけれど、活劇シーンも少ないからアニメーションメディアの強みを生かしにくいし、その一方で魔狼や大蜘蛛のようなアニメでは描きづらい動物たちが大量に登場する。しかし、はたみやさんやともながさんやささぬまさんが、あるいは最近だったらみるのさんやにしざわさんやにしがきさんがアニメ版で出演されたらと空想すると心が高ぶるのも確かだ。



  04/13(Sat)

  作業の合間に「まじ☆すか通信」を最新分から遡って聴いている。笹島さんが……「胃~之煮」の時とはまるで別人じゃないか! トークをぐいぐいリードしていくし、機知に富んだネタもふんだんに提供していくし、もちろん相方のトークもうまく受け止めて当意即妙に展開していくし、やたら元気が良くて声もよく通るし、言葉がきれいに流れていくし物事の説明もクリアだし、進行管理も達者だし、タイトルやコーナーのコールも間違えないし……高い実力を持ったラジオパーソナリティとしての本領が、存分に発揮されている。
  「胃~之煮」での笹島氏はたいていダラッとしていて、トークは中國氏に任せて、時々気紛れに飛び道具を放り込んでくるようなスタンスだが、人と場所が変わればここまで違うのか……。振り返ってみると、「胃~之煮」は、指導者の笹島氏が中國氏の頑張りを優しく見守っているシチュエーションのようにすら思えてきた。そう感じてしまうくらい、「まじ☆すか」での笹島氏は見事だった。その場の雰囲気を的確に見極めて、笑いに満ちたトークを堂々と繰り広げながら、巧みにトークの道筋をつけていく有様は、なるほど一流のMCだと納得させられた。

  ちなみに、あおき氏も、「胃~之煮」にゲストとして来られた時とはずいぶん違っている。「胃~之煮」では、理知的でありながら中國氏を煙に巻くような奇想のトークが際立っていたが、「まじすか」では地に足の付いた感じで、語り口も声色もかなりくだけた感じになっている。

  そして、相本氏が出産されていたとは。
  「まじすか」の中でも、妊娠中のご様子についてかなりストレートに話されていたが、今後あおき氏や笹島氏が「知り合いのお姉さん」として身近にいるような超危険な英才教育環境で育っていくお子さんは、いったいどんな物凄い人物になるのだろうか。


  [tw: 985416437492662274 ]
  ゲームの海賊版を(おそらく批判的に)語っている投稿が、まさに映像の無断転載を行っているというのは、もう笑えない。編集者の立場にあるという人物にしてこの有様だよ。


  【 声の話。ひとを褒める話。品位の話。 】
  発声が鍛えられていない一般人の声をデジタルサウンドとして聴くのはほとんど苦痛の域だし、ましてやヘッドフォンのクリアな音響環境だと、ぼやっと響く声色や、アクセントの不明瞭さや、切れの悪いブレスが強調されるので、聞くに堪えないものになる。実況ほにゃららの類は、頼まれても聴きたくない。
  とはいえ、俳優(声優)や声楽家のような発声のプロでない者であっても、当の論題に関して専門家として深い造詣を持っている場合は、さすがに話が違ってくる。1)語っている内容そのものが示唆に富んでいて傾聴に値するものであるがゆえに、多少の発声の拙さは気にならなくなるというのもあるが、2)主題に対する理解の深さが、語り口の説得力にもつながっているという事情もある。優れた研究者の講演はその典型だが、それ以外でも、なにかしらの専門家がインタヴューに答えている映像は、真剣な熟慮に基づいた誠実な言葉であったり、莫大な経験と実績に裏打ちされた確信のある言葉であったりする。素人では説明もたどたどしくなりがちだが、専門家の語りは当然ながら流暢でクリアな説明になっているし。

  ちなみに私自身は、どうしたわけか、知人や同僚から「良いお声ですね」とお褒めをいただくことがわりと多くて、単なる御愛想でそんなところを褒めるのはあまり一般的ではないから本当にそう聞こえるのかもしれないし、また、実際に講義などではできるだけ聞き苦しくないように気をつけてはいるのだが、しかしそれでも、1)残念ながらけっしてきれいな声ではないと思うし、2)ましてや自分の録音音声を聞くなんざ真っ平御免だし、3)どんなことであっても他人から自分の身体的特徴に言及されるのは苦痛だし、4)声以外に褒められるところは無いのかよと勘繰ってモヤモヤしさえする。けっして気持ちの良い話題ではない。

  ディーセントなマナーとしては、相手の容姿や身体的特徴に直接言及するのは、たとい称賛の言葉であっても、失礼な振舞いだと言うべきだろう。ひとの顔立ち、プロポーション、そしてもちろん声も。それは、当人が完全にはコントロールしきれない要素であり、したがって当人のアイデンティティそのものであるというよりは、当人のアイデンティティのありようを制約している要因であるからだ。だから、そこを褒められてもけっして嬉しくはないし、ましてや否定的なコメントであれば、明らかな無神経発言になる。どうやら男性は言う場合も言われる場合もあまり気にしないひとが多いようだが、女性に関してはそうした言及は、控えめに言ってもきわめてストレスフルなものだし、もっと言えば、セクハラに限りなく接近していく。
  中間的なのは、姿勢や所作だろう。無意識的なもの(要するに「癖」)であったり、習慣づけられてきたものだったりすることもあるが、本人の生き方や美意識を反映している度合いはかなり強くなる。例えば、「いつも姿勢がきれいで格好良いですね」とか「歩き方が優雅な感じですね」といったコメントは、相手との距離感次第では、そして差し出口にならないような限度では、まあ、無くもないかもしれない。
  結局のところ、ファッションを褒めるのが、無難といえば無難だろう。大人であれば、たいていの場合、ファッションは意識的に選択されたものであり、なおかつ、当人の美意識を反映しているものだからだ。例えば「コートの色合いがきれいですね」、「取り合わせがエレガントですね」、「可愛いアクセサリーですね」といった程度のものであれば、「当人のセンスを褒めており」、なおかつ「当人の身体的部分に直接言及しているわけではない」から、比較的受け入れられやすいだろう。もっとも、そもそも他人の外見(だけ)を褒めるという振舞いをわざわざしなければいけないような場面は、そうそう無いのだけど。個人的には、「持っているポーチの色合いを褒める」のがぎりぎり許容範囲内かなあという程度で、それ以上は着衣やアクセサリーへの言及もNG。

  ただし、役者の場合は、かなりびみょーな問題になりそうだ。なんとなれば、役者の仕事は全人的な身体的パフォーマンスであり、当人の現前(プレゼンス)とその全身運動的表現を含めたあらゆる視聴覚的表出の魅力が売りになっていることは、否定できないからだ。視覚的に認識される外見の魅力と、表現行為としての身体性は、声優や着ぐるみ役者でもないかぎり、ほぼ不可避的な、役者業の内在的要素なのだ。しかし、だから、いや、しかし……役者(声優を含む)に対して、「イベントで拝見しましたが、おきれいでしたね」というファンのコメントは、webラジオなどで聴いていて、かなりモヤっとする。異性の身体的特徴に言及している不躾な行為だから、忌憚なく言えば、非常に気持ち悪い。しかしそれは、異性の身体に言及する下衆な俗物的発言であるのか、それとも役者としての身体的パフォーマンスの美しさを称賛する芸術的評価の言葉であるのか、その判別は必ずしも明確ではない……かもしれない。あるいは、男性の役者に対して同様に、「舞台を拝見しましたが、とても格好良かったです」と述べることは、1)単なる外見称賛なのか、2)役者としての適性を評価する言葉たりうるのか、3)肉身での表現行為の素晴らしさに対する称賛の言葉を意味しうるのか。非常に難しい場面だと思うし、私自身、まだ明確な態度決定はできていないが、自省の意識は失わずにいたい。

  私だって、イベントなりあるいは写真なりで声優さんの姿を目にした時は、「もう三十路でいらっしゃるのに、中学生と見紛うばかりの若々しく朗らかな笑顔にびっくりした」とか、「さすが、眼鏡声優としても名高いだけあって、今日の眼鏡の着こなしも完璧だし、眼鏡を写させる角度も絶妙だ!」といった感想(やけに具体的だが、気にしないように)を内心抱くことはあるけれど、そういう感想をご本人に直接ぶつけるのは素朴にすぎる――つまり粗野で礼儀知らずで子供じみていて、要するにバカ――というものだ。


  [ shchara.co.jp/04develop/27taijyu/2character4.html ](※食事時などは注意
  えっ……あ、う……えーと。そのフリートークはどうなんだ。

  フリーダムなフリートークというと、Triangle作品で遠野氏がディネロやファルケについて「へたれ」「勝手にいきやがりまして」「気持ち悪い」と好き放題なコメントをぶちまけていたり、
  [ www.route2.co.jp/Data/ElixirKnights/vE09FREE.wma ](※音声ファイルにつき注意
  [ www.route2.co.jp/Data/SacredGround/wave/rena_freetalk-1.wma ]
あるいは、Whirlpool公式サイトでみすみ氏が「木村あやかを観察する会会長」を名乗っていたり、「木村さんが麻婆丼を食べてます」とレポートをしていたり。
  [ whirlpool.co.jp/inakoi/CHR/sample_voice/FREE_CHIHIRO_b.mp3 ]
  [ whirlpool.co.jp/magustale/character/iframe/sound/EMM_comment.mp3 ]
  こういう本格派に比べれば、歩氏のお下品トークはまだしも可愛いもの…かなあ?



  04/12(Thu)

  新年度に入ってからは生産的に過ごしてきたが、今日はなんとなく趣味活動に身が入らず、もやもやしている。溜まっていたブックマークを処理して過ごそうかな。


  「メロブ梅田店が出来るのか、良かったね」と思ったけど、店舗の場所がすぐに確かめられなくてイラっとした。情報の出し方が拙劣すぎるだろう……。

  1) 公式サイトの告知ページ:[ www.melonbooks.co.jp/feature/detail.php?feature_id=1270 ]に行っても、住所も地図も一切記載が無い。
  2) ページ最下段のリンクから「店舗案内」へ移動しても、ページ上段はイベント情報のバナーがずらりと並んでいて、必要な情報にすぐに辿り着けないし、スクロールして全国店舗一覧を見ても、梅田店のことはまだ反映されていないので無駄骨。
  3) 仕方ないので前のページに戻ってみると、ページの中程のイベント告知にハイパーリンクがあるので、そちらに移動してみると、「大阪日本橋1号店にて先着で参加券配布」云々とあり、不安を覚える。日本橋店じゃなくて梅田店のことを知りたいのに……。ページを順々に見ていくと、「開催場所」欄にさらっと住所が書いてある。私は関西に住んでいるので、その住所が梅田近辺であろうことは理解できるが、他地域の人にはこの記載だけでは確信が持てないだろう。しかも、地図や経路情報などは一切書かれていないので、この住所であらためてweb検索し直さなければいけない。
  4) そしてgglマップで確認してようやく、だいたいの立地が把握できた。阪急梅田から東に2ブロック行ったところ(100m程度)のようだから、かなりアクセス良好な立地だろう。

  Melon Booksに対しては、べつに悪い印象を持っていないのだが(あるいは、オタク系企業としてべつに嫌いではないからこそ)、こんなところでモヤモヤさせないでほしい。こんな気の利かない仕方で情報発信して損をしてしまうのは可哀相だ。実際には、Melon Booksくらい知名度も需要も大きければ、この程度の些細な瑕疵はすぐに埋められると思うけど、そうでない場合には致命傷にもなりかねない。最初に店舗オープンの情報に接した時点で、ユーザーが「ああ、この場所に出来るのか、ならばこんなふうに行けるな」という具体的なイメージを持てないと、そのまま忘れられてしまう可能性は高い。

  ※後日追記。別の場所だったようだ(cf. [tw: 985823893129592832 ])。店舗所在地をもったいぶって後出しにするなよ……。「住所ごときの情報を別に分けてリリースして、何度も話題性を掴もうとするなよ、せこいなあ」というのと、「店舗場所のような重要な情報を、ユーザーにすぐに示さずに宙吊りにしておくのは、PRの仕方を間違っている」というのと、両方の憤懣がある。


  [tw: 983310095726424064 ]
  STPメンバーの皆さんはだいたい見当が付くけれど、マエストロと執事の間にいらっしゃる男性はどなただろう。思い当たるところでは……飯島氏かな? STP602回と603回をつまみ食いで聴いてみたけど分からない。飯島氏だとしたら、たぶんノーギャラのラジオには出られないけど(※ちなみに、「続・胃~之煮」#13にいらした方も、おそらく飯島氏)。

  写真や動画で表現されている場には、通常の出演者と並んで盲点になりやすい存在として「撮影者」も居合わせているというのは、綾辻行人のミステリ(『どんどん橋、落ちた』)でもネタとして使われていた。


  うわあ、多根清史って、まだtwアイコンをジョブズコラにしているのか。実在個人(他人)の写真を勝手に、しかも改竄して使っているというのは、相当ひどい行為なのだが。この人物はおそらく商業ライターだと思うのだけど、そういう立場の人が肖像権を踏みにじっているというのはなあ……。知人友人は彼の行為を諫めたり窘めたりしていないのだろうか。
  小渕総理の元号コラとか、前ローマ教皇のエフェクトコラとか、それ以外でも有名無名の様々な人物のニュース画像のコラージュとか、とにかく実在特定個人の写真に手を加える行為は、深刻な問題がある。1)多くの場合、肖像権の侵害になる。2)本来の画像制作者(写真家等)の権利を侵害している。3)多くの場合、改竄+無断転載になっている。4)第三者には真正な画像かコラであるかが区別できない場合がある(――ひいては、世間一般において、写真が証拠としての信用されなくなっていく)。5)コラージュの仕方によっては、名誉毀損等に当たる可能性もある。
  無名の素人がアングラ的にやらかすならまだしも、名前を出して仕事をするライターがこのようなことをするのは、当然ながら彼(ら)自身の活動にも跳ね返ってくるのだが……。つまり、世の中に対して「ひとが作り上げた著作物を、適当な遊びのために改竄したり転載したりしてもよい」とか、「商業ライターでも、画像を無断で改竄して使っているのだ」、「商業ライターが画像を出しても、それは真正なもの(無加工の本物だと信頼できる物)であるとは限らない」、「商業ライターでも、個人の肖像権について適正な取扱をしてくれない」といった認識を強めてしまうのだが。
  この一事をもってしても、私はこの人物の職業倫理をまったく信じられないし、彼の著作もまったく信用できなくなったし、そして彼の著作や発言は一切視界に入れない(読まない)ようにしている。しかし、よりいっそう深刻なのは、これが彼一人の問題ではないということだ。ライター全体が、商業出版物全体が、疑わしいものになっていく。その一歩を進めているという点が深刻なのだ。そして、だからこそ、同僚や仕事相手はきちんと指摘していくべきだ。それこそが業界の――つまりプロ同士の間での――あるべき自浄作用というものだ。そうした自浄作用が働いていない時、あるいは業界の自浄作用が働いていないように見える時、モラルの低下が生じるのだ。

  ただし、
  1)歴史上の人物(例えば100年以上前)に関するものであって、
  2)制作者に関する著作権法その他の配慮がもはや必要無くなっており、
  3)写真そのものではなく絵であり(つまり事実としての真正性が問題にならない)、
  4)有名である(つまり誤認される可能性が十分低い)、
という場合には、できるだけ自由に扱ってよいと思う。それが数百年前の国民的英雄の絵や、特定の宗教に関する大昔の聖人のイメージであっても、想像力のあるパロディを展開したり、風刺的な戯画化を行ったり、女体化させてゲームに登場させたり、あるいは子供じみた落書きを書き加えたりして構わないと思う。そうした自由な創作の余地を可能なかぎり広く認めておく方が、人類の創造性にとってはより好ましい。



  04/11(Wed)

  『DAISOUNAN』にも可愛いキリカブ族が登場したし、『のんびり農家』にも切株型種族(ドリアードのようなもの)が登場したので、内藤氏にはもしかして切株萌えのような感性がおありなのだろうかなどといった余計なことを考えながら、今日はバウムクーヘン(切株状ケーキ)を食べてきた。
  『巣作り』などにも、樹木タイプの「モエルモン」がいたっけ。


  胃~之煮MAX#20。おお、ついに清水選手が「胃~之煮」に来られることになったのか。


  『その大樹』のように、おおむね決められた道筋に沿って一歩ずつ自軍の侵攻ルートを展開していくSLGというと、Escu:deの『英雄*魔王』や『Re;Lord』シリーズがある。
  『英雄*魔王』は、大陸の端から端までを一周するかたちで侵略していくもので、速攻ルートと安全ルートの二択があったり、あるいは移動せずに戦力増強に努めたりすることができる。特定地点までの制限ターンがあるので、ゲームとしての緊張感もある(短いターンで到達すると、もらえるボーナスアイテムのランクが上がるという褒賞要素もある)。2005年のタイトルなので、現在のEscu:deの洗練されたシステムデザインと比べるとわりとシンプルな作りではあるが、そのぶん目標や期限が明確で、難易度もなかなか歯応えがあった。『その大樹』のマップ移動の大枠は、この作品にかなり近いと言ってよさそうだ。
  『Re;Lord』は、中規模のマップ複数毎に分割されており、それぞれに目標地点が設定されている。桝目状に区切られたマップに、テトリスのような様々な形状のブロックを置いていき、ブロックを置いた場所が自軍支配地になって、そこまで進めるというもの。速攻を目指すならば、棒状ブロックを並べていくとよいし、周囲の宝箱マスも確保していきたいならば2×2の四角形ブロックなどを使うことになる。双六とテトリスをミックスしたような不思議なシステムだが、進行手順の一手一手に頭を悩ますところが多々あり、Escu:deらしい高難度のゲームに仕上がっている。インターフェイス面もこのブランドらしい超絶的洗練を発揮しているし、SD状態の秋野花キャラがブロックを「よっ、と」と放り投げてくれる動きもたいへん可愛らしい。



  04/09(Mon)

  すでに26歳よりはなんぼか年上になっているけれど、今でも特大クレープの一つや二つはいけると思う。少なくともケーキ3つくらいは軽いし、その倍でも十分食べられるだろう。
  そういえば、あおき氏がホールケーキを一日で平らげた話をされていた(「轟け」#222回)のを思い出したが、さすがにそこまでいくと真似できる人は女性でも少ないと思われる。私の場合は、「ホールケーキの完食はたぶん可能(胸焼けもしない)」、「しかし味に飽きるだろう(各種取り揃えればホールケーキ相当の量でも楽しんで食べられると思う)」、「カロリーなどが怖いので、実行したくはない」といったところ。スイーツはたいてい大好きだけど、「甘味に餓えるほど欲する」ということは無いので、食べなくても全然困らない。嗜好品としては、まあまあ良い付き合い方が出来ているのではなかろうか。
  ちなみに、普通のごはんに関しては食が細くなっていて、量を食べられない。そのわりに今年の春はあまり体重が減らなかったけど。


  「アカネチャン」のレタリングはなんとなくロシア・アヴァンギャルドを連想させる。


  岡本氏の漫画は、私の好みではない。コマ組みもあまり洗練されているとは言えないし、個人的な好き嫌いでいえば「嫌い」だった。しかしそれでも、この方はこの方なりに誠実に作品を描いておられるのは分かる(特に『エルフェンリート』単行本に散発的に収録されている短編作品を読むと、その不思議な熱意に圧倒される)。また、背景作画もかなりしっかりしている(そういうところまで、きちんと制作の手間[コスト]を掛けている)。だから、けっして好きではないけれど、悪く言うつもりは無いし、評価されるべきところ――見過ごされている美質――はたくさんあると思う。最新の連載作も、ナンジャコリャなシチュエーションなのだけど、人間性と身体性の交錯(言い換えれば人の尊厳と性の間の問題)を巡る思考実験的創作としての側面もあって、軽々に判断を下せるものではない。そして、そのような観点で見ると――とりわけ女性キャラの側で見ると――、アダルトゲームですらめったに見られないほどの悲惨なセックスを表現していると思う。


  十年以上前のことだが、壊れたHDDを、せっかくだから内部構造を見てみようと分解していたら、ビリッと感電したことがあった。記憶のかぎり人生で唯一の感電経験。ケーブルなども抜いて完全停止していたのだが、「HDDって帯電してるんだ」と驚いた(たぶん、感電だよね……)。HDDのネジは普通の規格ではないので、たしか普通のドライバーで強引にこじ開けていた。


blggrがバグって、投稿一覧画面の「表示回数」(ページ閲覧数)欄がオール0になったので、SSを撮ってみた。ピクトグラム表示なので分かりにくいが、右側の列が「表示回数」。左側のゼロ列は「コメント数」で、元からオール0(そもそもコメント欄を設けていない)だったので判別できないが、一緒にバグっている可能性がある。
  珍しい現象だが、これまでにも何度か見かけたことがある。年に一回くらいはこのバグに遭遇していると思うが、ページ更新した回数(=この投稿一覧画面に戻ってきた回数)は累計でおそらく1万回を超えているくらいだと思うので、バグ発生率は零点零何パーセントくらい……あれ、意外と高い頻度で起きている?
  ちなみに、プライヴァシーに関わる部分などは一部消してある。このブログのアカウントが、旧ブログのそれと同一であるというのは、まあ、今更隠すものでもあるまい。下書き(未公開)状態の記事が存在しないことも読み取れるが、そのくらいは構うまい。

  さらに余談ながら、この「表示回数」欄は、数字が1000を超える(4桁になる)と、数字とその横の眼のマークが横に並ばず、縦二段表示になる。表示位置も左右が揃わなくなるので、見た目はたいへん不格好になる。なんとも洗練されないデザインだ。
  表示回数が5桁以上の場合にどうなるかは知らない。表示エリアからして、8桁(1千万回以上)になるとまずいことになりそうだ。趣味のブログでは1千万アクセスは滅多に無いと思うが、公共性があって大きく注目されている記事であれば、グローバルに1000万アクセスが発生することは十分あり得る。
  コメント数については、うちのブログでは確認できないが、これも4桁以上になると表示がずれるのではないかと予想している。どうせblggrのことだし。


  ああ……ついに、家の中に物を置ける場所が、もうどこにも無くなってしまった。書籍が山となり、CDが壁になり、ゲームが塔を成し、フィギュアがあらゆる隙間に林立し、そしてそれらの上に完成した模型が並んでいる。さすがに、床に直置きするのは問題があるので極力控えているが、それでも床に土嚢のように積み重なった書籍や模型箱やその他いろいろなものを詰め込んだ段ボール箱が部屋の隅からどんどん侵食してきて、ベッド周辺がかなりお見苦しいことになっている。うーむ、諦めてゲームのパッケージを潰すしかないのか……。
  とりあえず明日は、目の前のゲームを一つプレイしよう。(現実逃避)



  04/06(Fri)

  今月は音楽月間になりそうだ。クラシックがこんなに楽しかったとは。
  ただし、月末は『大樹』に掛かりきりになる予定。 4月の新作予約も済ませた。

  『その大樹』のファリナセアは、いかにも歩サラ氏のキャラっぽい顔立ちだなあ。
  (なんだそれは。)


  【 フルプライス、ミドルプライス、ロープライスの定義如何 】
  ミドルプライスとロープライスの価格帯は、どこで区切ったらよいのだろうか。私としては
- 定価4000円未満がロープライス(※参考:getchuでは4000円以下がロープライス
- 4000~6999円がミドルプライス
- 7000円以上がフルプライス
という認識でいる。

  ひとによっては「3000円以下がロープライス」くらいに区切るかもしれないし、あるいは「6000円以上がフルプライス」と考える人もいるだろう。3000円を低価格の境界線にしてしまうと、ロープライスが実質的に「2000円台のみ(2000~2999円)」とかなり狭くなってしまうので、せめて3000円台まで(つまり2000~3999円)を低価格としたい。
  また、近年では定価9800円以上のタイトルが増えてきて、フルプライス帯が上に広がっているので、下限は「7000円以上」とする方がよいと思う。昔から6800円のタイトルもたまにリリースされていたが、「ちょっとお安め」という認識だったから、個人的にはミドルプライスの範疇で捉えている。2017年1~3月発売作品だと、税抜定価6000円台のものは、『緋のない所に烟は立たない』、『牝狩賊』、『いつまでも僕だけのママのままでいて!』、『しゅがてん!』、『性反転症の「俺」が「私」になるまで』、『オフィスで誘うエッチな彼女』、『催眠学園3年生』がある(すべて6800円)。これらをフルプライスのカテゴリーに入れるか、ミドルプライスと見做すかは、かなり微妙なところだろう。
  ちなみに、7000円台のタイトルは非常に少ない。定価8000円台に対して安さをアピールしづらいためか、あるいは企画規模が中途半端で作りにくいのだろうか。


  バッハ、モーツァルト、ブラームスと来て、フォーレがたいへん美しい。室内楽が特に好み。
  そしてヤナーチェク。ピアノ曲も、室内楽も、管弦楽曲もどれも面白い。
  さらにヒンデミットへ。自分なりに縒り合わせた音楽史を辿っている気分だ。


  アニメについても、精読のモデルを出していきたいなあ(※ゲームや漫画についてはすでに試みたことがある)。単なる「これが好き」トークや台詞の文言解釈や裏設定語りではなく、視聴覚表現すべてを視野に入れたきちんとした読解を。現にある表現そのものを丁寧に読む姿勢を示すこと。その中に有意味な要素を見出し、腑分けし、分析し、それらの意味連関を解釈すること。それはどのような方法によって為されるのかを示すこと。そういったことを実際に遂行してみせるのは、他の読者にとっても有益な見本になるだろう。


  【 アダルトゲームにおけるアダルトシーンの配分 】
  白箱系は、ゲームをスタートしても当分の間――場合によっては10時間以上――濡れ場が来ないという予想が立てられるので、安心して開始できる。黒箱系は黒箱系で、時系列進行を入れ替えてでも、のっけからアダルトシーンに入ることがあったりするが、あらかじめ覚悟してスタートすればいい。もっとも、黒箱系タイトルはたいてい、ゲーム進行の大半を満遍なくアダルトシーンが占めているが。
  ピンク系タイトルは難しくて、擬似的な白箱系スタイルを採って最初のうちに日常シーンが続くという場合もあれば、最初から全力でえろえろなシーンが始まるタイプもある。TechArts系列やアトリエかぐやは後者の典型。中価格帯のタイトルには前者のパターンもわりと多い。
  非AVG(主にSLG系)タイトルは、ストーリー全体がドラマティックに進行しがちなので、序盤から激しいベッドシーンが頻出することも間々ある(ソフトハウスキャラ、alicesoft、Escu:deなどはたいていこちら)。その一方で、純愛寄りの内容だと、最初のベッドシーンまでにかなり時間が掛かることもある(――特に『神採り』は、普通にプレイしていると、最初のベッドシーンが発生するまでに30時間だか40時間だかは掛かる代物だった)。極端な場合には、アダルトシーンを発生させるか否かの裁量が完全にプレイヤーに委ねられていて、進め方によっては一つも濡れ場を発生させずにエンディング(エンドロールが流れるまともなエンディング)に到達できるというものもある。典型的なのはソフトハウスキャラで、『南国ドミニオン』が最も徹底的だが、それ以外にも『巣作り』はプロローグの1個以外はHシーンを一度も発生させずにエンディングを迎えることが可能だ(ったと思う)し、『王賊』もコマンド選択式のイベント発生なので、ベッドシーンをほとんど発生させずに進めていくこともできた。その他、初期の『神楽』シリーズもこれに近い。『Piaキャロ2』のメインヒロインが、「Hするとバッドエンドになり、Hせずに進めるとハッピーエンドになる」というフラグ設計になっていたのは有名だろう。


  いまだに藤原氏とオダワラ氏を頭の中で取り違えかける。「そう、あの『ゆのはな』のオダワ…じゃなかった、藤原氏は~」といった感じで。絵を見て見間違えるという話ではないし、頭の中で区別もついているのだが、単純に名前だけを間違えてしまう。「原(ワラ)」の字のせいではないと思うけど。絵に関しては、どちらも透明感のある中間色を巧みに用いつつ、クリアカットな輪郭線で清潔感のある絵を描かれるという程度の共通点はあるものの、似ているというほどではない。どちらも好きな原画家さんなだけに、混同してしまうのはなんとも申し訳ない。

  単純に「似通った名前」というと、カグユヅ氏(えろいゲーム原画を描いたりする方)、カヅチ氏(えろい漫画を描いたりする方)、カヅホ氏(ぐろい漫画を描いたりする方)、……ああ、それから、たぢまよしかづ氏(ぐろいゲーム原画を描いたりする方)もいらっしゃった。


  カジュアルに手を出しやすいブランドがある一方で、「作品のクオリティや意欲的姿勢は高く評価しているけれど、手を出しにくい要素があったり、私の感性に合わなかったりして、なかなかプレイできない」というブランドもある。私の場合、ChuablesoftやOrbitやWAFFLEがそれに当たる。どのような点で付き合いづらかったのかを言葉で表現することも難しい。そして、まさにそういうところが、つまりブランドイメージを要約するのが難しいとか、作品のコンセプトや特徴を言葉にして表すのが難しいという、そういうモヤモヤするところがまさに、付き合いづらかったのだと思う。残念ながら、ChuablesoftもOrbitも活動停止してしまったが。


  白箱系(学園恋愛系)で、ありがちな作りを想定して比べてみると。
  フルプライス(8800円):ヒロイン4人:長大な共通パートがある。/Hシーンは一人5個程度。
  ロープライス(2800円):ヒロイン1人:共通パートはかなり短い。/Hシーンは7個程度。
  こうしてみると、ロープライスにも独自のアドヴァンテージがあることが分かる。さらに黒箱系だと、ストーリー部分をもっと切り詰めて(というか、ストーリー展開を性表現要素と一体化させて)、そしてHシーンは10個以上になる。


  キャラの眼鏡に気を取られて、裸であることに気づかなかったことはないか? 私はある。
  (威張って言うことではない。)


  集団を閉じ込めて競わせても、能力が高い者が生き残るわけではない。その過程では本来の作業以外のことに労力を奪われるから生産性は低下するし、また、完全な閉鎖状態に置けるわけではないから、能力の高い者はそんな不毛な場所には留まらず、能力を正しく認められる場にどんどん脱出していく。その一方、自力で出て行けない者たちの中で生き残るのは、平気で同僚を切り捨てる者や、内部闘争(足の引っ張り合い)に特化した者だ。だから、公平な評価基準無しに人間蠱毒をやらかすと、要するに「能力が低くて性格が悪い者」ばかりが濃縮される。優秀な者は最初に逃げていくし、上に忠実なイエスマンすら残らない。まあ、人間蠱毒で生き残るそういうタイプの輩はまさに「毒」だと言えるし、人間蠱毒をやらかすような上層部にはちょうどお似合いのスタッフだと言える。



  04/04(Wed)

  [ ameblo.jp/snow11snow22/entry-12362189844.html ]
  STPのメイドさんと執事さんが! おめでとうございます。

  「胃~之煮」は今日中には最新分まで概要記事が出来そう。
  例によって、聴き返しながら無音でSLGを再プレイしている。検証プレイやレベル上げなど、無音でも出来ることはいろいろある。さすがに模型制作と平行作業することは難しい。キーボードを定期的に叩きつつ、鋭い刃先のある工具を使うのは、かなり危ない。


  『その大樹』があるので、今月末分の予約は早めに――今週末には――しておこう。


  【 攻略情報盗用問題に関する雑感 】
  企業運営によるゲーム攻略情報盗用サイトの問題は最近知ったが、熱意あるトップランナー的ユーザーのモティベーションを殺すという意味で、ゲーム文化に対する攻撃的行動と言わざるを得ない。また、内容が薄いにもかかわらず検索上位を占有するという点では、通常のユーザーにとっても不利益をもたらしている。

  アダルトゲーム分野でも、00年代前半頃にはすでに、攻略情報盗用の問題は攻略サイト運営者たちの間ではっきり意識されていたし、盗用に対する対処も行われていた。例えば、本来は存在しないデータ――通常の閲覧者がそれを参考にしても実用上はけっして困らないもの――を仕込むとか。あるいは、選択文言の細かな誤字を入れておくとか(※人力入力ではあり得ないような、例えば「一(いち)」と「ー(長音)」の入れ替えのようなもの)。そして、盗用が発見されたらサイト閉鎖や攻略記事全削除にまで追い込んでいた(――攻略記事も独自の著作物だし、相手方サイトが逃げようとしてもサーバ運営会社やアフィリエイト会社に話を持って行けばちゃんと対処させられる)。特に、有名攻略サイト「愚者の館」のFool氏は、そうした盗用対処をきちんとされていた。ただし、当時はもっぱら個人サイトと個人サイトの間の問題であり、企業がそうした攻略情報の上澄みを掠め取ろうとすることは、私の知るかぎり存在しなかったし、ましてや「当該企業自身がサーバ運営しているので開き直れる(盗用指摘が来ても無視したり一部削除のみで誤魔化せる)」といった事態にもならなかった。

  また、某サイトD.R.は、攻略wikiなどによるデータ盗用に対して非常に攻撃的に振舞っていて、当時の私はその振舞いに対してけっして好意的ではなかった。というのは、その攻撃性だけでなく、D.R.自身が通常の攻略ではなく、おそらくファイル解析によって内部データを暴露していたからでもある。「一種のソフトウェアリバースエンジニアリングであって、正当な攻略手段ではないこと」、「根幹部分は内部データそのものの書き写しにすぎないこと」、「類似の内容を掲載する攻略wikiなどが、その者のサイトからの盗用であるという証明ができない(何故ならゲームそのものの内部データなのだから誰が見ても同一になる筈なのだ)にもかかわらず、一方的に盗用の嫌疑を掛けていたこと」などがある。現在の目で考えれば、攻略記事作成者の権利を守ろうとしているという点では、あの人物の姿勢にもいくらかは評価すべきところがあるのかもしれない。

  私自身については、盗用被害を受けたことは無いと思うが、そもそも調べもしていないので実態は分からない。特にSHC作品に関しては、総合wikiと被らないように気をつけている。ただし、「一つのサイトだけが出している攻略情報は、その実質的信頼性が第三者には判断できないが、別個に調査した複数のサイトの攻略情報が一致しているならば、その結論は正しいであろうという推測を高めることができる」というロジックがあるので、類似した攻略を行うことそれ自体が悪いわけではないと思う。
  また、うちのブログはおそらく非常にマイナーであり、攻略情報を求めるユーザーが検索してもうちの情報に辿り着けない可能性がある。だから、私が出している情報で有益なものがあれば、誰かが攻略wikiへ持って行ってくれても――つまりコピペしてくれても――構わないと思っている。ただし、第三者にはどちらがオリジナルであるかが判断できないわけで、私の側が盗用だと思われては困るという事情もある。もしもうちの記事から引き写しするならば、その際には出典としてうちのURLを記載しておいてくれれば、私としては十分ありがたい。

  一時期は攻略のためにプロセスメモリを読んだり書き換えたりしていたけど、「これはやってはいけないな」と思い、そういうアプローチとは手を切った。だから、このブログで公開している『BB3』などの攻略記事は、純然たる実プレイに基づいている。


  当事者内部で暴力的な行動や不公正な権力作用が罷り通っているだけならばまだしも(いや、それだけでも十分最悪だけど)、性差別+人命軽視に関してもあそこまで行ってしまうとなると、もはやスモーは反社カテゴリーだという意見にも頷ける。もちろん法律上そのような扱いをすべきだと主張するものではないが、彼等の行動に見られる強度の反社会的性格は反社集団と大差ないよねというレトリックとして。
  それはそれとして、迅速かつ的確に救護に当たられた方々は、本当に素晴らしいと思う。


  [ tw: 980779715228155910 ]
  1万以上RTされていてさすがに看過できないので言うけど。
1) 特定の作品だけに執着して「他の作品には目もくれず何年間も思考し続け」るのはそんなに良いことなのか? 「人生を捧げる」にしても、その対象はたった一つの作品だけでなければいけないのだろうか? また、この人は昔のファンたちのことをどれだけ知っているのか(本当に知っているのか)?
2) そういうタイプのファンが「減っている」というのは事実か? また、環境要因の違い(供給されるタイトル数)などを無視していないか?
3) 「提供される新作を追い続けるだけの搾取される」というのは、ずいぶん偏った一面的な評価ではないか? そして、「豚」呼ばわりは明白かつ深刻に侮蔑的なのではないか?

  何度も書いていることだが、趣味を享受するスタンスは人それぞれであり、みずからの人生と折り合いを付けられる範囲で楽しめばよい。心を捧げられるような素晴らしい作品に出会えるのはそれはそれで良いことだが、それは趣味生活の絶対的目標などではない。
  しかし、そもそも「他の作品には目もくれず何年間も思考し続け」る姿勢は、はたして生産的なのだろうか。芸術作品について考える時、当の作品そのものを慎重に精読し再読し、あるいは細部まで見落とさないようにくりかえし視聴することは、それ自体はきわめて重要なことだ。しかし、その作品にどのような個性があり、どのような歴史的意義を持ち、どのような達成を実現しているかは、その作品だけを見ていても判断できない。同じ分野または隣接分野の大量の作品を経験していく中で、一つ一つの作品の面白さや美質や歴史的意義が理解されていくというのが、人間的認識や芸術的評価の通常形態だ。そうしたことを怠って、「他の作品には目もくれず」に一つの作品のみを反復するのは、極端に非効率的であり、それどころか偏狭な思い込みの中で不毛な堂々巡りに陥ってしまいやすい危険な姿勢だ。もちろん、一つの優れた作品を「何年も思考し続け」ることそれ自体は良いことだが、しかし、その際に「他の作品には目もくれず」にいることはまったく不要であり、けっして褒められたものではない。「他の作品には目もくれず」にいることが素晴らしいという思い込みは、はっきり言えば見識の狭い幼稚な独断にすぎない。
  とはいえ、無数の選択肢に囲まれながらも、十年以上ずっと一つの連載漫画を追い続けていたり、あるいは特定のアニメをくりかえし視聴したおかげで全台詞を完全再現できるほど憶え込んでいたり、自分の感性に特にフィットする声優さんの出演作をずっと追い続けていたり、二十年も続いているゲームブランドの新作が出る度にちゃんとプレイしたり、そしてそれらを定期的に読み返したり再プレイしたりしている人は、もちろんたくさんいるだろう。それはそれで素晴らしいことだ。そしてそれは、二十年前や三十年前と比べても、人数としてはむしろ格段に増えている筈であり、「減っている」だろうとは考えられない(――何故なら、オタクの総数自体が爆発的に増加しているのだから)。また、そのような種類の専心的なファンは、「(割合として)減っている」と述べて比率の問題に還元して薄められるものではない。そうした人々の行動の美しさは、それ自体きわめて尊いものであって、ライトユーザーが増えているからといって、そういう献身的な人々が「もしかして(比率として)減っている」という言い方をしてはならない。もちろん、ライトユーザーの裾野が広がることも、趣味分野にとってはとても素晴らしいことだ。
  また、食べきれないほど潤沢に新たな作品が供給される状況は、とても素晴らしいことだ。無数の作品の中から自分が好きになれる作品を選んでいけること、それは間違いなく、豊かな状況だと言える。そして、食べられるかぎりの作品にどんどん食いついていく健啖さは、それはそれで活動的で前向きな、趣味人として素晴らしい姿勢だ。けっして「搾取される」だけの受動的な存在などではない。可処分所得のほとんどを注ぎ込んで、プレイしきれないほどのゲームを毎月買っては、それらを心から楽しんでプレイする人たち。睡眠時間をぎりぎりまで削って、毎日大量のアニメに没頭してそれらの視聴覚演出のディテールを味わい尽くそうとする人たち。毎月100枚単位のCDを買ってはひたすら聴き続けている人たち。そういう人たちは、はたして「(主観的または客観的に)搾取されている」のだろうか? それははたして愚かで不毛で受動的で自らを貧しくするような行為なのだろうか? 私には、けっしてそうは思えない。
  どうしても看過できないのは最後の部分だ。なぜ、ひとのことを安易に「豚」呼ばわりできるのか。ここまで述べてきたような認識上の問題をさて措くとしても、この一点だけは許せない。他人を害することなく自分なりの趣味を楽しんでいる人たちに対する冒涜的表現に対して、私(たち)ははっきりと拒絶と批判を提起すべきだと思う。本人がどこまで意識化できているかどうか分からないが、これは趣味活動や趣味人をバカにする、文言上、明白な攻撃の言葉だ。
  創作の虚構世界を楽しむオタクは、しばしば多面的な視点を持つことができる心理的なしたたかさを持っており、そこから自らの趣味活動をも相対化して、自らのオタク的行動についても一捻りした自虐的な表現を弄ぶことが時としてある(――近年では薄れているが、執拗なオタク差別の歴史もあって、00年代前半まではそうした自虐や冷笑の素振りはわりとよく見られたものだった)。しかし、それが許されるのは、自分一人のみに向けた自虐であるか、あるいは明白にブラックユーモアとしての責任を引き受けられる場合のみに限られるはずだ。第三者が使ってよい表現ではない。現在でも依然として、なにかしら負のイメージを持つ集団を何故か唐突に「オタク」と呼んだり、あるいは「○○豚」という表現がカジュアルに用いられたり(!)しているが、そのようなカテゴリー的偏見に基づく侮蔑表現はその都度明確に否定されねばならない。

  もっとシンプルに言おうか。「昔は良かった式の繰り言」+「貧しさを称揚する、勘違いしたストイシズム」+「他人に対する侮辱的言辞」。NG要素が満貫に乗っていてどうしようもない。

  私個人としては、同じ作品を再プレイ/再視聴/再読するよりも、どんどん新たな作品に向かっててきたいと思う。もちろん、再読や精読に堪える素晴らしい作品にもたくさん出会ってきたし、再読をしても同じ感動の反復(再現)に終わることなく新たな魅力を探っていけるような知的訓練を受けてもいるし、過去の傑作が忘れられないようにすることは重要だと考えている(実際、このブログでも00年代や90年代のタイトルにも頻繁に言及している)が、それでもやはり新たな作品――自分にとって「未読の作品」であり、時代において「最新の作品」であるもの――に、ついていきたい。
  もちろん、新たな作品が優れた作品であるか(あるいは、好きになれる作品であるか)は保障のかぎりではない。しかし、人生の有限な時間を引き換えにしても、新たな感性を獲得すること、未知の体験によって鍛えられること、次なる傑作に出会うことには、十分な価値がある。
  例えば、00年代なり90年代なり、昔のアニメを観返してみると、当時傑作として高く評価されていたり、あるいは放映当時は楽しんで視聴していた作品であっても、現在の目で見ると演出が未熟で退屈だったり、笑いの感性が2018年現在とはまったく違っていたりするということはある。そのギャップは、とりもなおさず、その作品から十年なり二十年なりを経て、それだけアニメの表現が新たな感性を獲得してきたということであり、それだけアニメ分野が新たな表現技術を獲得してきたということであり、そして2018年の私(たち)がそれだけ知性の複雑さと感性の幅を拡張してきたということの現れに他ならない。芸術表現におけるそのような急速な進展を無視して、過去の傑作のみを反芻し続けることは――その傑作の果実がどれほど甘く魅力的であり、その達成がいかに優れて崇高なものであったとしても――私には出来ない。

  もちろん、事実の問題として言えば、物事は、歴史は、良くなるばかりではない。ある文化が興隆したり、ある分野が活性化したりする時期があるのと同様に、ある文化が衰退したり、ある分野の表現が停滞したりする場合もある。自分たちがコミットしている趣味分野についても、そうした頽落が生じていないか、パフォーマンスの低下傾向に慣れてしまっていないかは、常に警戒しなければならない。例えば私も、近年のオタク諸分野で、腰を据えた慎重な調査や精密な分析や示唆的な議論が「減っている」のではないかという懸念を抱いている。しかし、そうした危惧をただ声高に呼びかけても仕方ないのだ。自分自身を括弧に入れてただ無責任に警告や慨嘆や非難を口にしても、何も得られないのだ。現代のオタクたちを腐しても何も変わらないのだ。それを覆すための実践を自ら行うしかないのだ。私はオタク分野に関しては創作サイドの人間ではないから、優れた作品に出会ったときは、その作品のどこがどのように優れているかについて的確な論評を人々の前に提示するように努め、あるいは、そうした議論を少しでも底上げするために理論枠組や術語体系を整備するように努めるしかないのだ。例えば、先日の実在兵器論は前者に属する試みだし、旧ブログ以来のAVG演出技術論は後者に属する試みだ。そうした研究的実践がどこまで成果を上げているかは分からない――はなはだ心許ない――が、私としては能力と時間のかぎりで最善を尽くしているつもりだ。


  木々津氏の新連載が始まったのは嬉しいが、この出来はどうかなあ……。『ふらん』のようなブラックユーモアがあるわけでもないし、『マーニー』のような機知の輝きがあるわけでもないし、『兄妹』のようなオカルトミステリの味わいがあるわけでもないし、『アーサー・ピューティー』のような苦み走った風刺が利いているわけでもない。だから、捻りのないグロ趣味ばかりが目立ってしまって、ちょっと辛い。オカルト噂話ものというシチュエーションのせいで、台詞で一方的に語るばかりの漫画になってしまっているのも、なんとももどかしい。そんなに悪い出来というわけではないのだが、最高の木々津氏はこの数段上の素晴らしい切れ味の作品を描いていただけに、惜しいという気持ちが抑えられない。
  作中世界の治安の悪さは、相変わらずの木々津作品だねえ。


  『有害指定同級生』単行本を読んでいて、どうでもいいことをふと考えたのだけど。「ひとりエッチ」という言葉はもっぱら女性にのみ使われており(あるいは女性のみが使っており)、男性のその種の行為には使われない…ような気がする。私の言語感覚に照らして考えると、その行為を指す同種の表現はすべて男女ともに適用されていると思う――ただしいわゆる「発電」は男性に偏っているかも――が、この言葉だけは女性についての、あるいは女性が使う語彙であるように感じられる。私だけでなく、一般的にそういう認識が成立しているのか。そして、いかなる機微があってそういう用語法の違いが生じているのか。さしあたり想像するかぎりでは、語感が下品ではなくて、カジュアルな感じや可愛らしさもあるので、女性(女性誌など)でも使いやすいのかもしれない。即物的な表現とか、お堅い漢語表現や医学用語とか、捻りすぎた表現とかだと、言いにくさ(書きにくさ)が増すけれど、この言葉はそういう扱いづらさを免れているように思われる。ただし、いささか子供っぽい表現であって成人女性は使いにくいと感じるけど。
  ざっとweb検索してみると、「女性の行為について使われる」というよりは、「女性の発話で使われる」言葉のようだ。女性誌で男性の生理について語る際には、この言葉が使われることもあるようだ。私は純心無垢だから普段そういう話題を扱うメディアに触れたこと無かったので、ちょっと面白い発見だった。



  04/01(Sun)

  「STP 轟け」の概要記事が、50回分も溜まってしまった(※最新配信が第267回のところ、概要記事は217回分までで止まっている)。50回×15分=12時間半。丸一日集中すればなんとかなるので、早いうちにこなしておこう。

  概要執筆は3時間半で13回分……まあまあのペースかな。

  最近の「轟け」は今ひとつかなあ。180回を超えたあたりからサイコロトークばかりになっているのだが、その場でひねり出す無理のあるお題に対して、広がりのない一言コメントを繰り返しては次に進むというのは、残念ながら面白味に欠ける。サイコロで誰が当たるか分からない(自分が当たるか当たらないか分からない)という宙吊り状態も、参加者たちを狼狽えさせるばかりで、積極的な作用を果たしていない。彼等自身がこれを楽しんでおられるならいいのだけど、コンテンツの出来としてはずいぶんもったいないことになっている。


  『空電ノイズの姫君』(既刊2巻)は、冬目氏の近年の作品の中でも抜群に面白い。実績のあるクリエイターが、クリエイターものの作品(主人公が何かしら創作的な活動に取り組む作品)を手掛けると、複雑なニュアンスとデリケートな機微のある作品に昇華されることが多いが、それだけではない。特にこの漫画家の場合は、物語の進行をはっきりとは区切らずに、登場人物たちの人生の成り行きを静かなテンポで描き進めていくというスタイルが、「人生に迷いながら創作に向き合っていく若者の意識」というモティーフとうまく噛み合っている。過去と現在と将来。各キャラクターが、自身の人生のありように深く関わっている過去の出来事――両親の離婚や弟の死去――にまとわりつかれてそれを切り捨てることができないまま、同じく複雑なバックグラウンドを抱えた周囲の人々と交流していく中で互いに影響を与えていき、そして自分が向かうべき道を模索しつつ一歩ずつ人生の歩みを進めていく。そういった繊細で複雑で瑞々しい意識の相互作用が、慎重な手つきで描かれていく。


  『カガクチョップ』のweb最新版(第60話)。露骨な人体破壊描写に遠慮が無くなって、もはやキャラ絵の可愛さだけではどうしようもないほどの不条理ゴア漫画になっている……。


  「轟け」と「胃~之煮」を最新分まで概要記事作成した。次はまた一年間後になるだろう。

  STPのアクセスカウンターは、週間450アクセスほどのようだ。一応この数字が全てヒューマンアクセス(クローラーやスパムが入っていない)と仮定すると、片方だけ聴く人と両方聴いている人とがいるだろうし、頻繁にアクセスしている人もいるだろうから、常連ユーザーは200人くらいはいるのではなかろうか。私の場合は、毎週水曜日にアクセスして、STPと胃の両方をDLしている。STPはアレな投稿者がひどくて400回を超えたあたりから聴いていないが。


  (→5月3月