2018/03/31

「伏線」再論

  俗に言う「伏線の回収」を巡る思考。


  何が伏線であるか。つまり、どの描写が、別のどの箇所の描写と、どのような仕方で結びついていると解釈されるか。そのような判断は、当然ながら当の作品のテクストそのものを前提にしている。だから、作品に含まれる描写から、ある特定の結びつきを見出すことが出来たならば、その結びつきの前半部分(先に現れた部分)は「伏線」と呼ぶことができ、また、後半部分(後から現れた部分)は伏線的描写によって彩られた被修飾部分であると言うことができる。しかし、そのような二つの部分の間の実質的な結びつきが作品の中に見出せないならば、そもそも「伏線」部分は伏線でも何でもない。その描写が、どこか別の部分のための布石であるに違いないという想定は、現実の作品内容から離れた、その読者による思い込みに過ぎない。伏線だと思われた描写を、後に受け止める描写が存在しないならば、「伏線だと思ったものは、実際にはそもそも伏線ではなかった。それが現実だ」と言うしかない。だから、「伏線が回収されていない」という主張は、撞着表現か論点先取のようなものであり、本来はナンセンスなのだ。ある芸術作品の中に、実際には存在しないものを、「あった筈だ」「あるべきだった」と考えて、その要求を満たしていない作品の側を非難する。それはもはや、現に存在する作品のテクストを解釈する営みではなく、その読者が想像するような別の作品を新たに作れと要求しているのに等しい。



  このように、「伏線未回収」の非難は、基本的には作品内容に反するそのような転倒した主張であるが、それが意味を持ちうる場合――あるいは意味を持つと考えられる状況――は、存在するだろうか。試しに考えてみよう。

  1) 確立された慣習が存在し、作品がそれに反している場合。文法における係り受けや、詩学における枕詞のように、ある一定の表現要素が用いられたならばそれは必ず後に特定の表現要素によって受け止められねばならないという言語的文化的作法が確立されている場合に、それを逸脱するならば、その逸脱の適否が問われうるだろう。つまり、あえて行われたその逸脱は、なんらかの特別な表現効果をもたらしているか否かという問だ。その逸脱が、もしも慣例どおりの表現よりも優れたなんらかの表現効果を実現しているならば、それは「逸脱」や「違反」ではなく「修辞」として評価されるべきだろう。しかし、どれだけ好意的に解釈しようとしても、逸脱と引き換えにして得られたものが見出されないならば、それは「失敗」または「不格好な表現」という評価に終わるだろう。ただし、後者の場合でも、それは規則違反として自動的全面的に非難の根拠になるわけではない。むしろ、創作における因習こそは、批判されるべきものではないか。例外として、宗教芸術におけるように、強固な意味作用の体系が共有されている場合はあるものの。
  オタク界隈でありそうな事例として、例えばいわゆる「死亡フラグ」的科白はどうだろうか。将来の夢を語ったキャラクターが、その夢を果たせぬまま死亡してしまうという悲劇的展開は、すでに陳腐化して久しいが、これほど人口に膾炙した慣例的認識であっても、当然ながらそこからの逸脱――つまり夢を語ったキャラクターが死なずにやり過ごす――はまったく問題無い。

  2) テクストそれ自体の中に、それを求めることが正当化されるような具体的かつ明白な要素が存在する場合。例えば、「○○については次章で述べよう」と書かれているにもかかわらず、「○○」については最後まで触れられずに終わった場合、それは当該テクストの明示的要素そのものが齟齬を来しているわけだから、作品内在的な瑕疵だと述べてよいだろう。ただし、このような批判を提起することができるほど明白かつ具体的な欠落を生じているような事例は、極端に限られているだろう。また、批判を提起する側が、テクストに即して明白性と具体性を実際に証明して初めて、その批判は成立する。
  オタク的事例としては、例えば四天王キャラの存在が示唆されたにもかかわらず、作中では2人または3人までしか登場しなかったという場合はどうだろうか。4人全員を登場させなかったことは、その作品の欠陥と言えるだろうか。私見では、登場しない四天王がいたとしても、それだけではなんら欠陥にはならない。ただ存在が言及されただけでは、作中でそれ以上の役割を担わなければならない理由にはならないからだ。これは数字を拡大して考えてみればよい。例えば、星座ネタであれば88星座の全員が登場しなければならないか。あるいは、アムドゥスキアスなりフォルネウスなりが登場したら、残り71人も登場しなければならないか。答は否だろう。それでは、もしも、「四天王を全員倒さなければいけない」という状況が提示されていたならばどうか。私見では、その場合でも、せいぜい物語進行の「省略」の範疇で説明できる。連載打ち切りの憂き目に遭った漫画で、しばしばこのような省略が生じているが、それは作品(または作者)の責任ではない。



  しかし、オタク界隈を含む現代ポップカルチャーでは、「ある描写が提示されたならば、後にそれを引き受けるようなシークエンスが提供される筈だ」という期待が非常に強く提起されがちだ。それはもしかしたら、もはや作品解釈の問題を超えて、創作物のありように対する一般的認識の変化であるかもしれないと考えている。

  一つは、デジタルゲーム(コンピュータゲーム)だ。小説や映画といった近代的な既存媒体であれば、たいていの場合、作品のテクストはあらかじめ一意的に確定されており、内容が揺らぐことは基本的にあり得ない。だから、読者乃至視聴者は、自分が経験したシークエンス以外のものを要求するという発想を持ちにくい(舞台芸術や音楽の複数日公演のような古典的なライヴパフォーマンスでは、いささか微妙な問題が出てくるが)。また、将棋やTRPGのようなアナログゲーム、あるいはスポーツのゲーム(試合)では、ルールの下での協働的生成の側面が強いため、内容の揺らぎに対する批判が「受け手」から「作り手」に対して一方的に提起されるということは無い。しかるに、典型的なデジタルゲームにおいては、ゲームの内容はプレイヤーによって変動するが、生じうる現象は全て制作者によってあらかじめ制作されたものである。つまり、作品の現れはただ一つに確定されてはいないが、生じうるあらゆる可能性は、ユーザーの目には見えないデジタルデータの形であらかじめ用意されている。こうした状況では、ユーザーによって、ある状況(の描写)が生じたり生じなかったりするし、望ましいシークエンス(ゲームの成功)と、そうでないシークエンス(プレイの失敗)とがあり得る。このような環境に慣れたユーザーは、自分が実際に体験したのとは異なる別様のありよう――もっと望ましく整合的な描写のつながり――を期待する傾向を持つだろうし、そうした望ましいシークエンスが制作者によって用意されていなければならない(それは制作者だ)という意識に流れやすくなるだろう。これは単なる仮説の段階だが、伏線回収要求が高まってきた90年代末は、コンピュータゲームが物語的性格を強めていった時期でもあり、そこに関連性があったのではないかと考えている。

  もう一つは、00年代半ば頃からいよいよ活発になったメディアミックスの流れだ。漫画版やドラマCDといった関連商品が継続的にリリースされていき、あるいは同一世界設定の下でアニメ作品とノヴェル作品とが連動していたりする(例えば同一のキャラクターが登場する)。メディアミックス状況においては、一つの作品は、それだけでは完結しない。アニメ版で暗示された事件が、漫画版ではっきり描写されたりする。作品が完結しない、あるいは、作品が完結し確定されたテクストになりきらないということは、作品が作者の手を離れきらないということでもある。作品の内容(テクスト)は、客観的に確定された存在にはならず、制作者(権利者集団)がいつでも、いつになっても、新たな内容を追加して作品の意味を決定したり変更したりすることができる(※現代のソーシャルゲームが、けっして完結しないwork in progressであるのも、同じような状況である)。メディアミックスの作品群は、作品構造としては開放的だが、その一面で、作品の内容を事後的にでも左右する権限を作者側(正統な権利者グループ)が掌握し続けているという意味では、極端に閉鎖的である。作品の全体像を変更できるということは、作品の解釈のありようを左右できるということでもある。権利者集団によって作品の意味決定権限が囲い込まれている状況下では、読者はもはや、確定されたテクストに基づいて自由に解釈を展開するということができない。現代においては、伏線回収要求は、もはや受け手側が解釈活動の限界を超えて作品に対して自由な妄想をぶつける放埒な行動ですらない。徹底的に受け身で無力な受け手が、正統なる作者(集団)に対して、これこれのような描写を追加してほしいと乞い願う行為にすぎない。彼等の主観における自己理解の如何にかかわらず、作品の意味と価値を左右する前提部分が権利者集団によって独占されたままであるというのは確かだ。そして、読者たちが伏線の明示的回収を要求するのは、「伏線」だと見做された描写をどのように解釈しどのように意味づけるかをみずから行うことを放棄して、解釈の権利を――作品の意味作用を具体化し創出していく機会を――作者の側に返納してしまう行為なのだ。解釈の「正解」を与えてくれるように、作者側に求めることなのだ。伏線回収を要求し、公式見解を要望し、設定資料集を希求し、後日譚を期待することによって、制作者は作品の意味づけの独占権をいよいよ強固なものにしていく。

  さらに言えば、実在兵器に関する議論も、私の中では関連している。受け手側が実在兵器表現をありがたがる姿勢は、マニア的な知識の答え合わせの享楽と引き換えに、作中の描写をどのように解釈するかの問題を、現実の側へと返納するものになっていないだろうか。そうした答え合わせが、作品解釈のための出発点(手掛かり)ではなく、作品解釈を思考停止する終着点になってしまってはいないだろうか。現実の知識のみを尺度とする見方が、現実ベースの真理要求が、リアルさばかりを称揚する姿勢が、虚構世界の創造性に対する現実性(既に存るもの)の侵略が、その還元主義的姿勢が、芸術や創作や虚構に対する理解をいちじるしく貧しいものにしてしまっていないだろうか。
  また、ネタバレに対する過度な嫌悪忌避の姿勢も、これと関連しているのではないかと考えている。ネタバレ忌避が持つ問題については、以前の記事「『ネタバレ配慮』が持つ問題」や「ネタバレ忌避なんてやめてしまえ」の中でも思考してきた。



  ※当初、上の議論の前提として述べていた話。

  【 作品の意味を説明させられることの問題 】

  現在の一般的基準では差別表現に当たるような内容を含む過去の作品を再刊する際などに、出版社がそうした差別を肯定したり加担したりするものではない旨の注記を添えることは、それ自体としては社会的公正と虚構表現の間で折り合いを付けるために適切な対応だと見做されるだろう。しかし、そのような現実ベースの(社会的または科学的な)正しさに関するエクスキューズを芸術作品に添えることは、どこまで必要になってくるのだろうか。

 歴史上のこの人物がこのような発言をしたという史料は存在しないという但書。このような行為は医学的には誤りまたは危険である旨の注記。このようなSF設定は現在は科学的に否定されているという説明。このような行為を現実に行うと国内外の法令に基づいて処罰されるという警告。このようなオカルト表現は現実には証明されていないという補足。作中人物のこのような発言は現代社会では差別的であって肯定されないという態度表明。こうしたエクスキューズは、どこまで、どのような場合に、しなければならないのだろうか。そもそも、芸術作品が、これはXを意図したものであってYを意図したものではないとというコンセプト上の説明を、作品の外部で明示するよう強いられることは、芸術表現の芸術表現たる意義を、その作品の射程を、その作品の豊かさな両義性と複雑さと衝撃性を、著しく毀損するものだ。

  挑戦的な芸術作品が、その意義を言葉であらかじめ説明=限定してしまったら。アンビヴァレントな内容を含む思想的小説が、いずれかの立場を絶対的に支持するような解説をつけられていたら。特定の信仰に基づいた宗教芸術が、この信仰対象が実在することは証明されていないと付記されていたら。ワクワクするようなファンタジーやホラー作品が、巻末に作中の現象は科学的にあり得ないという解説を含んでいたとしたら。人間の認識は不可避的にカテゴリー的な包摂を伴うにもかかわらず、そのような暫定的なデフォルト的/ステレオタイプ的な認識を含むあらゆる人間的表現行為が、そのような過度の一般化に対して常に責任を負うとしたら。ある個人乃至集団の特定の性質をカリカチュア的に誇張するような作品が、常に弁明を求められるとしたら。特定の政治的立場をなんらかの仕方で(ベタに、またはネタとして)含むようなゲーム作品が、異なった政治的立場から素朴に批判されるような世の中であったら。偶発的核戦争を扱った映画の冒頭に、合衆国空軍はこのような事態は起こり得ないと保証するというテロップが出されたら。

  差別表現の事例に関しては、たしかに実在する特定個人または特定のカテゴリーの人々の権利や尊厳や利益を傷つけるという、十分(甚大)かつ明確で一定以上に具体性のある侵害が発生するため、そうした差別的言動が肯定されるものではないという社会的なメッセージを繰り返すことは、望ましいことだと思う。しかし、外延は明確ではない。あらゆる表現行為――とりわけ虚構表現や芸術表現――の意味と意義を、現実ベースの(科学的/社会的な)正しさに還元してしまおうとする現代的傾向は、芸術表現の射程を致命的に切り詰める虞がある。

  例えば、ある作品が特定の政治的(社会的)立場を部分的にでも含んでいる場合に、ただその一点を理由として、その立場が政治的(社会的)に正しくないと見做す人々が、それを愚かな作品と、誤った作品と、不正義な作品だと断じられるのは、どの政治的(社会的)立場が正しいかにかかわらず、芸術的にきわめて貧しい行為であり、そしてそれ自体政治的(社会的)にきわめて危険な行為ではなかろうか。

  もちろん芸術作品は、社会的に発表されるものであり、つまり、実在する多くの人々に向けて、彼等の現実の意識に訴えかけることを目的として行われる、社会的行為の一種であり、そしてそれゆえ芸術の看板を掲げることで社会的責任を一切免れるわけではない。しかし、その一方で、作者が社会的責任の名の下で芸術作品のネタばらしを強いられることは、社会における芸術活動の意義を、あるいは人類が(専門的で先鋭的なものであれ、一般人の日常的なものであれ)芸術活動に見出している価値を、致命的に毀傷するのではなかろうか。芸術の自由、芸術表現の自由、芸術における自由が、いよいよ閑却されているように思う。芸術作品が、社会の疑義に対して常に分かりやすい説明を求められるとしたら。あるいは、社会的であれそれ以外の理由であれ、芸術作品に対して真理要求を突きつけることが正当なものであると考えられたら。なんらかの既存の価値体系を尺度として芸術作品の価値を全面的に判定できる(してよい)というような社会になったしまったら。そのような社会では、芸術が新たな感性を刺激したり、固定観念に対する挑戦を有効に発揮したり、あるいは、特定の結論を決め打ちしたわけではない実験的な表現を試みたり、作者が理性的な言葉では表現できなかった心中の衝動をおもいきり表現したりすることは、出来なくなっていくだろう。

  受け手側が芸術作品に対して作品外在的な判断基準を適用することで事足れりとしてしまうようになる危険と、受け手が自らの思考を放棄して芸術作品の正しい解釈を作り手側に要求してしまうようになる危険。私はこの双方に対する懸念を繰り返し述べてきた。両者は一見すると正反対の現象だが、作品それ自体の繊細なディテールや複雑な両義性を無視するという点において表裏一体の関係にある。先日来の芸術解釈の政治化の問題もこの一環だし、また、伏線「回収」を要求する近年の傾向もこの問題圏の中にある。




  ※本題に関連して、2018年1月4日に書いていた文章。

  【 メディアミックス作品と解釈の余地 】
  アニメ化に際しての原作キャストの維持にも見られるように、アニメ/ゲーム界隈の現代オタク文化は、非常に強くメディアミックス様式に規定されている。それはそれで、文化の一つのあり方なので、大上段に否定されるべきものではない。しかし、個々の(創作)文化がその生成および受容のあり方に関して持つ形態は、それぞれに長所と短所を伴う。現代のメディアミックス文化に対して私が持っている懸念の一つは、解釈の余地に関するものだ。

  ある一つの作品に触れる受け手は、当該作品の具体的内容に反しないかぎりで、その作品に関して比較的自由な解釈の裁量権を持つ。それは、受け手が当然有するべき資格だ。しかし、メディアミックス文化においては、例えば一つのアニメ作品の物語が単体では十分な結末に到達しないままであって(例えば大ボスと戦わないまま全話終了してしまって)、その結着は小説版の続きを読まなければいけなかったり、あるいは、TV放映版アニメではストーリーのつながりが不可解に飛躍しており、その間隙は漫画版同梱のOADを観なければ補えなかったり、あるいは唐突に見知らぬキャラクターが登場するシーンが挿入されて、そのまま何の役割も果たさぬまま退場していくが、それは小説版や設定資料集では重要な役割を果たす人物の顔見せであったりする。

  一つの作品が、それ単体では完結しないというのは、よくあることではある。ある作品(群)が客観的にそのような柔軟な開放構造を持っていたり、あるいは遊戯的にサブキャラを登場させていたり、作品外部の特定の知識を参照していたり(それを知らなければ理解できなかったり)するというのは、それ自体としては特別なことではない。しかし、ここで問題になるのは、そうした単一作品の「外部」が、実際には外部ではなく、特定の実在の(権利関係を共有して作品内容をコントロールしている)制作者集団の間で行われているということだ。

  作品のありようを一手に掌握している作者=権利者集団が存在し、なおかつ、複数の媒体に亘って作品の実質的内容を連続的なものとして確定させるオーソリティを持っていること。言い換えれば、ある作品の内容の解釈が、メディアミックスされた複数の媒体の複数の作品を参照しなければ、「当該作品の具体的内容に反しないかぎりで」という前提条件を満たせないものになっていること。受け手にとっては、一つの作品A1に対してみずからなんらかの解釈を構築しようとしても、十分な正当性を提起することが難しくなり、例えば作者=権利者集団がのちに別の作品A2を作ったならば、A2の中で提示されたA1に対する解釈が、A1の読者に対しても拘束力を持つようになってしまうということ。共通の世界像が、共通の作者=権利者集団の下で、複数の媒体の複数の作品にまたがって幅広く展開されていくという、現代型メディアミックス作品は、解釈の権利を読者から一方的に奪い去ることを可能にしている。一見自由な開放構造の作品は、その裏面で、作品解釈から読者を排除する閉鎖的創造に陥る危険を胚胎している。

  もっとも、さしあたっては、現在のメディアミックス作品の多くは、受け手に対して拘束的な解釈を表立って突きつけるようなことは行っていない。また、同人文化の隆盛の中で、個々人が別様の解釈を自由に提起し表現し流通させていく自由も残されている。しかし、少なくとも論理的には、「共通の世界設定の下で、同一の作者=権利者集団の下で、複数の作品が連続的なものとして制作されていく」というメディアミックス文化を受け入れるかぎり、一読者の解釈が、後に公表されるオーソライズされた別作品によって意味を失わされるという危険性が、常につきまとうようになっている。それはきわめて不幸な状況だ。

  そしてそれは、特定の作品として確定された具体的内容よりも、作者の言葉が優先されるという事態をも引き起こしつつある。特定の作者=権利者集団の下にあるメディアミックス作品の意味内容が、彼等がのちに公表する別の関連作品によって容易に左右され得るという状況では、作品のテキストに対する忠実性よりも、作者の言葉――作品そのものではなく、インタヴューなどにおけるただの言葉――の方が、重視されてしまうようになる。実際、すでにそうなっているだろう。作者の言葉を求め、解釈上の問題は新作によって解決が下されることが望まれる。その一方で個々の受け手の解釈は不安定かつ非正統的な地位に置かれたままになってしまう。作者=権利者集団がいかに寛容な姿勢を見せていても、彼等はいわば作品の内容を事後的にいくらでも変更できる力を持っており、それに対して受け手の解釈はきわめて無力な地位へと引き下げられている。このような状況を、私は現代オタク文化の閉塞性の重大な一因として危惧している。


  作品の構築に関しても、ファンサービスのために本筋とは関係の薄いシーンを中途半端に突っ込んできて、作品単体としての雰囲気や筋運びを歪めてしまっている場合がある。既存ファンを楽しませるためのくすぐりをちりばめた作品は、それはそれで好評をもって迎えられやすいだろうが、そうでない読者にとっては「何故か余計なキャラクターが入ってきて、しかも本筋に対応しないまま放置されて終わる」といったことになりかねない。作品の「完成度」とは何かという問があらためて問われるだろう。


  もっとも、その一方で現場的な話としては、現代の開放構造の(オタク系/非オタク系)作品においては、一つの創作世界の世界設定や年表が濃密、詳細、巨大なものになっている場合がある。そうした場合に、その大規模な創作世界のあらゆるポテンシャルを汲み上げて表現しきるのは、ほんの一つのパッケージタイトルでは到底カバーしきれないということにもなりうる。そうした場合に、ある創作世界の魅力を可能なかぎり引き出して描いていこうとするとき、協業的なメディアミックス創作の形態を採らざるを得ないということもあるだろう。現代の情報技術の進展やクリエイターたちの技術的習熟が、そのような巨大なバックグラウンド設定を構築し共有することを可能にしている。メディアミックス創作の功罪を考える際には、そうした側面も考慮する必要があるだろう。