2018/01/31

2018年1月の雑記

  2018年1月の雑記。(→2018年2月2017年12月


  01/30(Tue)

  【 むにゃむにゃな話 】
  なんだかかなり珍しく、そして非常に難しい出来事があったようだ。
  このもやもやに対して自分なりの考えをまとめるために書いてみると:

  【 理念として 】:大上段に理念レベルの話をすると、そもそも役者はあくまで虚構の世界の中で架空の存在を演じているのだ。だから、この「フィクション(虚構)」という枠の中ではどのようなことでもあり得えてよいし、役者の演じるキャラクターはどのようなエキセントリックな言動も行うことが、あり得るし為し得る筈だ。
  例えば、非人間的な振舞いを嬉々として行う残虐な殺人鬼であろうが、そのような殺人鬼によって人間的尊厳を奪われる悲惨な被害者であろうが、役者はそれらを引き受けて表現することがあり得る。しかし、それらの芝居は現実ではないという前提の下に、役者はきちんと保護されている。二股男を演じたからといって役者自身も性的に放縦なのだろうと同一視したり、悪役の芝居が上手いからといって役者自身が善人ではないと考えたりするのは、ただ単に幼稚な誤解にすぎない。つまり、どのような台本でどのようなキャラクターをどのような芝居で演じようが、それは表現内容の卓越という基準で評価されることはあっても、演者本人の人間性と結びつけられてはならない。また、役者自身の立場においても、例えば生身の自分とは異なる政治的見解と親和的な内容を持つ作品に出演したり、自らの宗教的信念に反するような見解を口にするキャラクターを演じたりしても、それはあくまでフィクションの中でのことであり、その役者の実生活上の信念を変更したことにはならない。
  そのような虚構性の額縁の中でこそ、役者は自由にいかなる世界をも、いかなる架空存在をも、安んじて演じることができるのだ。原則としては、こうである筈だ。

  【 役者について 】:しかし、役者も生身の人間としての価値観や感情を持っている。そうした枠の中ですら、やはり演者個人の信念や価値観と深刻に衝突することはあり得、そしてその衝突が耐えがたいほど大きいと役者本人が考えるのであれば、もちろん――言うまでもないことだが――それを演じないという選択肢はあり得る。芝居は強制労働ではないのだから、どのような役に志願し、どのような芝居を拒絶するかは、ひとまずは自己決定の範疇の事柄だ。
  例えば、アダルトゲームで白箱系にしか出演しないというポリシーの役者がいたとしても(少なからずいるようだが)、それは役者個人の選択の問題にすぎず、他人が善し悪しを言うべき問題ではないし、また、その者の役者としての資質の評価を左右するようなものではない。ある種の路線の作品には出演したくないとか、ある種のシチュエーションを演じたくないとか、ある種のキャラクターを演じたくないという意志を俳優が表明しているならば、受け手としてはそれを尊重すべきだ。それはゆるがせにしてはならない。現在の俳優(声優)業界の慣行は、それをいわゆる「NG要素」の提示と尊重という形で実現しているようだ。個々の声優が自分なりのNG要素を持つことは、業界内慣行として認められているようであり、NG要素を表明して対応を協議することそれ自体はなんら不当ではないと思われる。
  なお、すでにキャスティングされた役を降りることは、役者当人にとってもけっして簡単な決断ではないだろう。現在の声優業界は、原則として給与制ではなく、役者個々人がオーディション等で役を取ってきて、その報酬(ギャラ)が声優の収入になるというものであり、その意味でも一つの仕事を降りるというのはきわめて重大な判断になる。ましてや、ゲーム版から演じていて愛着を持っていたであろう役だから、その意味はきわめて大きい。役者当人が軽率だったとか不誠実に振る舞ったとは考えられない。貴重な仕事の機会を放棄するかもしれないにもかかわらず、それでもなおやりたくないという意志を表明することなのだから、NGの問題はけっして安易軽薄な好き嫌いの問題などではなく、役者個人のアイデンティティや尊厳に深く関わる重大な決定の問題であり、その意味でも可能なかぎり尊重しなければいけないと思う。

  【 事務所について 】:その一方で、役者等が所属する事務所は、マネージメントとともに、所属者の様々な利益保護をも行うための組織だと言ってよいだろう。だから、所属声優が自己のNG要素に触れるor触れそうになった事態が生じれば、役者側に立ってその者の利益や尊厳を保護するために交渉の場に出ることは、まったく正当なことだし、そして、巨大なメディアや多数の顧客や大量のファンを日々相手にしなければならない役者たちのデリケートな側面を保護するのは、きわめて重要な仕事だ(――実際、公表されている告知文でも、声優サイドの交渉当事者としては事務所の名前のみが言及されている)。
  そのような事態が深刻なものであった場合に、降板交渉の矢面に立つのは当然として、さらに、所属役者と相手方との間の契約関係に事務所も関与していたならば、当該事務所自身がすみやかに代役提供を申し出て穴埋め(出演者の充填と選定手続の引き受けの双方の意味で)を図ろうとすることは、事務所が契約関係における信義を果たそうとする行動であり、社会的常識に照らして自然なことだろう。むしろ、契約関係がいずれかの当事者の不義理によって致命的に破綻したのでもないかぎり、代役に関して我関せずの態度をとることこそが不誠実だろう。例えば、出演俳優が急死した場合に所属事務所が代役を提供してフォローするのと似たような話だと考えて良いのではなかろうか。
  今回の件では事務所側から「脚本及び一部、内容について変更のご要望」があったとのことだが、常識的に考えれば、降板という事態を引き起こさず事態を収拾するために事務所側がひとまず非拘束的な提案を行ったということだろう。出資すらしていないであろう声優事務所が、個別作品の内容に容喙できる資格があるとは考えられないからだ(――そうだとしても、作品内容の変更に関する介入のようにも聞こえるので、かなり驚かされる話だが)。
  いずれにせよ、事務所としては、おそらくは一般的慣行の範囲内で所属声優を保護しつつ、収拾のための交渉(提案)を行っており、事後的なフォローにも貢献し、さらに謝罪文の体裁を持つ告知も出している(泥を被っている)わけだから、状況に対する一定の責任を引き受けてまっとうに行動していると見てよいだろう(――例えばマネージャーの勇み足といったような可能性も考えられなくはないが、さすがにそのような可能性は低かろう。事務所からの代役提案が制作側に容れられていることに鑑みても、事態はそれほどこじれているわけではないだろう)。

  【 制作側について 】:とはいえ、制作側にとっては、キャスト変更が「キャラクター性、作画、作品のクオリティに影響を与える」ことは言うまでもない。キャラクターと役者の一対一対応の結びつきがユーザー側から強く期待されている(ようだ)現代オタク系分野では、それはけっして望ましいことではないだろう。もちろん、作品全体の制作進行やスケジューリング、そして販売戦略の展望にも深く関わってくる。
  キャスティングされる声優が出演(または出演継続)できなくなるような内容的要素――NG要素――については、契約時に当事者間で確認および合意を得ている筈だ。しかし、文芸的な作品制作においては、その性質上、そうした条件に該当するかどうかの判定は、えてして曖昧であったり、解釈上の問題があったりするものだろう。だから、各当事者が常識的かつ理性的に振る舞っていたにもかかわらず見解の相違によって当該声優には受け入れられる限度を超えた台本になっていたということはあり得ると思われる。
  今回の件は代役を立てることによって解決された事柄だから(つまり、その台本を受け入れられる役者がいたわけだから)、制作側が作成した台本乃至脚本が明らかに問題のあるものだったということではないだろう。例えば、フィクションの表現としてすら許されないような名誉毀損的台詞や、刑法犯となるような猥褻な内容であったわけではないだろう。また、双方の告知文を読むに、製作委員会側は事務所および声優に対する謝罪を述べていないが、事務所側は製作委員会等に対する「お詫び」を明言していることからも、制作側の一方的な失態というわけではないようだと推察される。
  想像になるが、おそらく個別声優のNG要素に対する解釈上の齟齬があり、そのギャップが埋められなかったので、結果的に事務所側が泥を被るかたちで解決を図ったと解してよいようだ。そのような事態は、各当事者が合理的かつ誠実に振舞った場合でも常に発生する可能性のあるものであり、今回のようなキャスト交替という解決――これは非常に理性的で妥当な解決手段だろう――を帰結することもあり得る。受け手としては、とりわけ個別声優のファンにとっては、残念に感じることもあるかもしれないが、受け入れていけるようでありたい。

  フィクションは、実生活では行われないような極端な振舞いを描くことがあり、そうしたものを描くことが出来るのはフィクションの強みなのだが、それでも演じているのは生身の人間であるから当人の価値観や信条との間の深刻な衝突を来すこともあり得るし、また、芝居はまさに生身の身体的活動でもあるから役者個人のパーソナルな部分やアイデンティティとの間で摩擦を生じることはけっして稀ではないだろう。
  例えば性表現などでは、役者がなまめかしい嬌声を上げることは確かにフィクションを構築するための表現行為ではあるのだが、他ならぬ「その役者自身が発した嬌声」であるという事実の側面は否定できない。あるいは、実写映像作品でキスを撮影した場合、それは徹頭徹尾芝居として行われたアクションであるが、実際に役者自身の身体に触れる行為であることに変わりはなく、それゆえ現実における事実であるという側面を不可避的に持つ。もちろん、性的な表現以外でも、同じような事実性の侵食は生じうる。身体的実演性のゆえに、「役として表現した行為」と「役者自身が行った行為」とが、完全には分離切断することができない(ように見える)場面が生じることがある。これは、音楽家や彫刻家や建築家や小説家のような他の表現分野とは異なった、役者(および狭義のパフォーマンスアーティスト)に特有の性質だ。
  そして、それにもかかわらず、役者たちは突き詰めた芝居を披露してくれているのだ。そのような立場の難しさ、役者という生き方(あるいは職業)の難しさに対して、可能な限りの配慮が為されるような世の中にしていきたいというのが、その果実を享受している受け手の一人としての思いだ。

  さしあたり一連の告知を読んだ時点では、自らの価値観や信条に関わる重大な判断を下した(のであろう)役者さんに対して好感度が上がったし、また、途中からの代役という難しい仕事を引き受けられた役者さんに対しては好感度が大いに上がった。


  『ひめごとユニオン』も好きですよ。それ以外のほにゃららはプレイしていないけど。


  自分なりに考えてみると上のような理解になったけど、しょせん私は素人なので、自分の見方がどのくらい適切なのか分からないし、他のどのような視点があるのかも分からず、モヤモヤは収まらない。詳しい方の意見を聞いてみたいが……誰にきいたらいいのだろうか、どなたの意見を参照したらいいのだろうか?
  そういえば、声優(日本のアニメ系声優)に関して説得力のある議論を展開しているオピニオンリーダーって知らないなあ。声優雑誌のライターさんあたりには、分析的な演技論や体系立った声優表現論を提示している方がいたりするかもしれないけど、寡聞にしてそのような人は知らない。ごく普通の声優ファンの間でも、最低限の理論的整備すら為されていないのではないかという疑念はある。演劇論の蓄積や海外の議論など、参照できるものは大量にあると思うのだけど。


  [tw:  958213927053099008 ]
  この教員の行動こそが真っ黒なのでは……。学生個人の私物を無断で利用。明らかに処罰の域を超えている、というか教室内規律とは無関係な行動であり、アカハラに当たる可能性も考えられる。しかも勝手に学生当人に成り代わって(つまり他人の名前を一方的に利用して)特定のパブリックな発言を行なっている。さらにそれは学生のSNSアカウントのプライヴァシーをも深刻に侵害している(アカウント特定性もきわめて高い)。そのうえ、文面そのままで教員自身が当該事態を別途SNSで発信したことにより、当該学生アカウントに対する周囲の攻撃を誘発しかねない(というか、煽っているようにしか見えない)。
  当該学生のリアクション次第では、あるいは第三者からでもDT大に一報入ったら、この教員自身が委員会直行コースではないかな……。他人のSNSアカウントを無断使用したわけだから、不正アクセス禁止法周りの適用如何を真面目に検討すべき行為だと思う(※法文上は該当しないように読めるが、関連法規については不明)。しかもこれがソフトウェア関係の専門家と来た。情報工学の倫理はどこに行った。
  スマホ学生なんぞは、授業参加評価を0点にして粛々と単位を落としてやれば済むのに。教員自身がわざわざ情報倫理の反面教師をやらかさんでも良かろうに。

  こういうのに言及して大学(教員)の社会的信用が失墜するのは嫌だけど、それでも糊塗/隠蔽/歪曲/看過すべき問題ではないし、内部からでも(あるいは、まず内部から)自浄作用を働かせるべき事柄だと思うし、このような行動を他の教員たちが肯定しているわけではないというメッセージを発していく必要もある。


  ほんの序論程度のつもりが4000文字に……。こうなると、論述密度のバランスを取るためにも、本論は予定していたよりも丁寧に書かなければいけない。本論はたぶん3000字+3000字、結語に数百字で、全体としては1万字を目処にしたらいいだろうか。言及したついでで『群青の空を越えて』や『まいてつ』からの画像引用もしたくなってきたし……。全部書き上げてからここで公開するつもりだが、週末中に出せるだろうか。



  01/25(Thu)
  うう……今日の買い物は失敗しまくった……。プラモ用の小物はサイズの合わないものがあり、表紙買いした漫画もいまいち、そして小物の一つは帰宅中に紛失する(間違えてゴミ箱に捨ててしまったようだ)という失態……。たまにはこんな日もある、というか、こんなひどい日は初めてだ。


  自作プラモ写真は気楽に掲載できるのがいい。ゲームのスクリーンショットだと、正当化される「引用」の範囲にとどまる必要があるため、気兼ねなく掲載することができない(もちろんそれは他者の権利に対する当然為されるべき対応なのだが)。自分の気に入ったものを自分の好きなように撮影していくらでもばんばかブログにアップロードしてよいのだという安心感は大きい。


  自宅が手狭になりすぎて、展示スペースどころか収納スペースすら無くなりつつある。最近では店頭で良いフィギュアを見つけても、「こんな大きなものを、うちには置いておけないしなあ」と棚に戻してしまうことがよくある。ゲームは箱を見ずに通販予約するので、安心して買えるのだけど、届いた時に頭を抱えることになる。書籍やCD/BDは、小さいからと気軽に買っていると、あっという間にタワーがもう一本、二本と増えていくし……引越するのは金銭的時間的コストが掛かりすぎるし……いったいどうしたものか。ゲームの箱を潰すという方策がありはするけれど、気が引ける。


  「ひのまるっラジオ」をHDDの奥底から発掘してきた。金松氏の演じる「ルル・セアブル」がメインで、大波氏らもゲスト出演されている。ただし、キャラクターによるヴォイスドラマ形式であり、声優さん自身のトークは含まれない。まだ全部は聴き返していないが、昔のデータだから破損している可能性もあって、ちょっと心配。
  ゲーム製品版の予約特典に全部収録されていた筈だが、えーと、そちらのディスクはどこへ行ってしまったやら。というか、これがCD版のデータだっけ?

  金松氏はたいへん多才な方だが、ラジオでは「アルテミスブルー」のラジオ――ちなみにこれも各回10分程度のラジオドラマ形式――でもパーソナリティとして活躍されていたと記憶する。「スパラジ」も聴いていたのだったか。



  01/23(Tue)
  新記事:「『ガンダムMk-II』プラモデル4種の比較」。今更な内容だけど。

  イノセンティアも組んでみたら可愛かったので、またお召し物を買うてやらねば……。


  このブログの行き先はどっちだ。昨年末のPC不調のせいでゲームプレイが大幅に滞り、いまだに尾を引いている。一日平均2時間以上はプレイできている筈だが、心理面ではなかなか復調していない。その一方、散発的にフィギュアを買っていた中で12月にいきなりKOTOBUKIYAの大波さんもといビッグウェーブが来て、なんだかすごいことになってしまった。この分だと、もうしばらく模型趣味(プラモ/フィギュア)の高波は続いてきそうだが、ゲーム用ブログと模型用ブログを分けて運用すべきか、それともこのブログ一つでやっていくか……。
  さしあたっては、模型関連の個別記事をここに作っていって良いのかどうかという問題であり、今のところは模型関連の新記事作成はかなり控えめにしている。私としては、web上からの検索アクセスが保障されていさえすれば、どこにどんな記事を置いておこうが構わないのだが、定期的or一時的な訪問者にとってはどちらの方が良いのだろうか。話題の多様性があった方が面白い(とりわけ、見て楽しい写真が増えるのは良いことだろう)かもしれないが、ゲーム関係の話題が中心なのだから余計な話題が増えるのは、特にそれらにまったく興味が無い場合には、邪魔でしかないだろう。訪れたブログの趣旨や方向性や信頼性がはっきりしないというのは、カジュアルな訪問者にとっては好ましいことではないだろう。
  話題乃至分野の性質としてはどうだろうか。アダルトゲームに関するキーワードで訪れた人は、艦船模型やフィギュアに関するテキストや写真が目に入っても、不快に思うことはそうそう無いだろう。また逆に、プラモ関連の話題を期待して検索訪問した人が、このブログがアダルトゲームに関する議論を扱っていると知ったとしても、それだけで嫌悪や反発を覚えることはそうそう無いだろう。ちなみに、このブログでは性的な画像などは一切掲載していないし、極端に卑猥な話題も……えーと、たぶんしていない筈だ。だから、話題の混在それ自体は、我慢してもらえるだろう。
  このblggrサービスは、同一のアカウントで複数のブログを開設し運用することができるようになっているが、話題に応じた切り替えはやはり面倒だし、複数の分野に関わるテキストを書く場合も少なくない。また、一つのブログに更新が偏って、もう一方が疎かになってしまう(廃墟ブログ化)というのは避けたい。……さまざまな運用の仕方があり得るということを確認したうえで、さしあたってはこのまま雑多なブログとして続けていこう。
  ゲーム関連の話題で訪れた方々が艦船模型やフィギュア趣味に引きずり込まれたり、また逆に、プラモ関連の検索語で訪れた方々が(アダルト)ゲームに興味を持つようになってくれたりしたならば、それはそれで嬉しいことだが。


  いくつかあったonsenサイトへのブックマークを、一個を除いて全部削除した。ブーブーSEを鳴らしまくる音響感覚の鈍いディレクターや、パーソナリティを「汚物」呼ばわりする侮辱的投稿を平気で取り上げる下衆な構成作家のいるonsenには、もう近づきたくない。
  数年前にも同じような事情で一旦はあのサイトを開くのを完全に止めていたが、興味を持っている声優さんたちがそこでのwebラジオに出演されていたので再びほんのいくつかの番組を聴くようになっていたが……やはり耐えられなかった。
  ただし、どうしても聴きたいラジオが、onsen独占配信になってしまっている。「onsenコンテンツを聴きたくない(サイトを開きたくない、そのサービスを受けたくない、それを利することもしたくない)」という判断よりも、「私が聴きたいそのコンテンツを聴くのを、onsenごときが邪魔することは、到底容認できない」という判断の方を重んじる。


  【 算数の話 】
  素数物差し。2cmから17cmまでの素数センチメートルのみが書かれている目盛りで、15cmまでの長さを1cm単位で測定できる。自身が素数である2、3、5、7、11、13、17の他は:
  1= 3-2
  4= 7-3 or 11-7 or 17-13
  6= 11-5 or 13-7 or 17-11
  8= 11-3 or 13-5
  9= 11-2
 10= 13-3 or 17-7
 12= 17-5
 14= 14-3
 15= 17-2
の間で測ればよい。ただし16cmだけは、「17cm素数物差し」では測れない。もちろん16cmまたはそれ以上の任意の1cm単位の直線距離も、複数回に分けて測ればカバーできるが、それを言ってしまうと原理的には2cmと3cmさえあれば済むという話になってしまうので面白くない。

  目盛りをもう一つ足して19cmまでの素数物差しがあれば、17cmまで測れるようになる(18cmは測れない)。同様に、23cm目盛りまでであれば、21cmまで1センチ刻みで測定できる(22cmは無理)。そして29cm目盛りだと24cmまで測定できるが、25cmと28cmが測れない。これ以降、素数2つの差によって25cmを導くことができないので、素数目盛りをどれだけ延ばしても、1センチ刻みで距離を測る素数ものさしは24cmまでしか測れない。
  簡単な証明: 25cmを導くためにはどうするか。25cmそのものは素数ではないから、目盛りに記載できない。2つの素数同士の距離(除算)で25を導くには、25が奇数だから「偶数-奇数」または「奇数-偶数」しかあり得ないが、偶数の素数は2しか存在しない。「2-奇数(2cm目盛りと特定の奇数cm目盛りの間の距離)」または「奇数-2(特定の奇数cm目盛りと2cm目盛りの間の距離)」が25cmになる必要がある。しかし、「2-(-23)=25」の-23は素数ではないし、「27-2=25」の27も素数ではない。したがって、素数物差しが25cmを直接表示することはできない。もちろん、複数回に分けて測るのであれば測定可能だが。
  それ以降の奇数自然数の多くも、「素数」または「素数-2」で表現することができないものは、素数物差しに含むことができない。例えば33、49、55、63、75など。偶数の自然数の場合は、それ自身素数である2以外はすべて「奇数-奇数」になるが、あらゆる偶数自然数が素数2つの差によって表現できるかどうかは、ざっとweb検索してみたかぎりでは、どうやら未解決の数学的問題であるらしい。似たような問題として「ゴールドバッハの予想」というのもある(※和によって表すか差によって表すかの違い)。

  ちなみに、青山ゆかり氏の演じるキャラが歌ったり喋ったりする、「ゴールドバッハの恋愛予想」というタイトルのCDもあって、もちろんたいへん良いものでございました。


  365日(または366日)すべてが天皇誕生日由来の祝日で埋まるには何年かかるだろうかというのも、えーと、どう計算すればいいんだ。仮に一代30年として、365日全てが埋まるのは、期待値はざっと7.1万年(2300代以上)になる。7万年後の日本人は永遠の祝日を享受しているわけか。閏年を入れると計算がややこしくなるので省略するが、天皇が2月29日生まれである確率は1/1461なので、閏年を含めるとさらにシビアになると思われる。その一方、それとは別にすでに国民の祝日が十数日存在するので、365日全てが祝日になるのはその分だけ早まる。

  ちなみに、第n代天皇が誕生日を迎える前に、その年にすでに誕生日を過ぎた第(n+1)代天皇に替わった場合、その年には天皇誕生日が存在しない(あるいは、今上天皇の誕生日をその当日に祝うことが不可能である)ということもあり得る。また逆に、一年に2日(2度)、天皇誕生日が存在することもあり得る。一般化すると、新天皇即位日の時点で:
- 旧天皇がすでに誕生日を迎えており、新天皇はまだ →その年の天皇誕生日は2日(新旧)。
- 旧天皇がすでに誕生日を迎えており、新天皇も済み →その年の天皇誕生日は1日(旧)。
- 旧天皇がまだ誕生日を迎えておらず、新天皇もまだ →その年の天皇誕生日は1日(新)。
- 旧天皇がまだ誕生日を迎えておらず、新天皇は済み →その年の天皇誕生日は0日。
の4つのパターンがあり得る。ちなみに、二人がちょうど同じ誕生日であることもあり得る。


  歴史上の人物を、女体化なり何なりしてエロイラストを描くのは、「実在個人を利用したポルノ」に該当すると言えるのだろうか。どのような人間であれ、生命活動を瞬間からそうした尊厳が完全に消滅するというのは受け入れがたいように思われるし、遠い過去の人物であっても直系子孫のようにその人物の実在の事実と強く結びついている人々が現に存在するということも稀ではない。しかし、ポルノであれ何であれ、実在(した)個人の名前を歴史小説なり転生フィクションなりの楽しみに取り上げることが一切認められないというのも、また根拠の薄い要求だろう。個人的には、「直接顔を合わせた人がいなくなっているくらい遠い時代の」、「多くの人が知っている有名人」であれば、構わないんじゃないかなあ…といった程度の認識でいる。法律上の肖像権等としては、国によっても扱いが異なっていて、一概には言えないようだ。

  [ twilog.org/cactus4554/date-110110 ](14時28分以降)
  多少関連する問題として、以前にこのようなことも書いていた。物故者に対する哀悼や敬意や愛着の表し方は人それぞれなのだし、明白に侮蔑的な内容(例えばエロ同人で当人が蹂躙される様を描写をする)でないかぎり、許容されると思うし、他人のそうした行動を否定しうる根拠は無いように思う。女体化するとかケモ耳を生やすとかは、かなりグレーゾーンに足を踏み入れているように感じるが、本当にNGなのかというと根拠ははっきりしないし、それならば美形化(外見の美化)はどうなのかという例も考え合わせると、やはり線引きは難しい。あるいは、例えばその個人が殺害されるシーンを含むフィクションの場合でも、当該個人の尊厳を貶めるようなものなのか、それとも当該個人をモティーフにした悲劇的物語と捉えられるかは、必ずしも自明ではないだろうし。そう考えると、再び顧みて、性的に蹂躙される描写だって自明当然に侮蔑的であるとは限らないし。


(2018年1月24日、自宅にて撮影)
次の記事はこれのネタで書く予定(※プラモの記事ではない)。週末中に書き上げたい。



  01/21(Sun)

  こみトレはちょっと出遅れてしまい、目当てのサークルをあまり買えなかった。その後、日本橋へ向かったのだが……あっ、あっ……新たな扉が開いてしまう! ドールとギャンブルだけは危険だからやめておけと言われていたのに……。これは落ちる……この魅力はハマる……!

(2018年1月21日、自宅にて撮影)
「フレームアームズ・ガール」シリーズの2体(両脇)と、「カスタムリリィ」シリーズの2体(中側)。


  というわけで新記事:「『カスタムリリィ』(ピコニーモ素体)雑感」。

  そろそろ彼女等にも家を買ってあげたいな……。
  (さすがにドールハウスを置けるほどの場所は無い)

  このあたりのフィギュア(小型ドール)をベースにして、既存ゲームキャラを再現できないかなあ。いや、実際すでにメーカー公式でそういう「(キャラ)モデル」がいくつもリリースされているのだが、アダルトゲーム関連ではそういうのが市販されることは期待しにくいからね……。


  [ www.hook-net.jp/ixshetell/character/chara7.html#makina ]
  木村氏ご出演の新作が! HOOKSOFTさん、ありがとうございます、ありがとうございます!
  しかも、波奈束氏と卯衣氏がヒロインなんですぜ。さらに平野氏は、要するにあの方だし。これはもう、『QUINTUPLE☆SPLASH』以来のとんでもないキャスティングと言うしかない。


  それにしても、ここ最近の「就寝不規則+睡眠不足(時には半徹夜)+ストレス+冬季+遠距離移動(しかも電車)+早起き+エアコン(空気乾燥)+ときどき発汗(睡眠不足による寝汗を含む)+低温環境(塗装作業など)+体力消耗+人前に立つ(咳をしている学生たち)」で、まだ風邪を引いていないというのが奇跡的に思える。マスク大事、超大事。


  アートは表現であり、表現のありようを追求するものであり、それゆえ表現技術の追求を行わないアートは存在しない(――あるとすれば、技術の発達していないプリミティヴなものであるか、技術を否定するような特定の理念を備えたものか、あるいは例外的な天才だけだろう)。そして技術とは、オカルト的密儀の対極にあるものであり、試行錯誤とフィードバックと一般化が――全てではないにせよ――含まれる。声優(音声芝居)だって同じだと思うのだけどなあ。「芝居は教えられない」「芝居は教育に適さない」というのは、ちょっと信じられない。



  01/16(Tue)
  どうやら黒髪を細く絞ったツインテールに弱いようだ……気づかなかった。ツインテール特有の活発さと装飾性を備えつつ、テールの細さがしなやかさを表現し、なおかつ頭部のシルエットがショートカットに近いままであるところが良いのかなと思う。それに対して、ショートカットのみだとシンプルすぎるし、大ぶりなツインテールだと頭部の印象が重たくなるし、ポニーテールは後頭部に来るので見栄えのするレイアウトにするのが難しいし、サイドテールは片側に寄っているのでこれまた扱いが難しい。また、テールが細いと黒髪でも鬱陶しくならないし、きれいに伸びたテールで黒髪の美しさも引き立たせられる。ちなみに、黒髪はアニメやゲームだと紫や緑で描かれることも多い。


  『魔法少女アイ』の頃から、「どこが魔法なんだ、ロッドで殴ってるだけじゃないか」と言われていたものなあ……。近接戦闘特化の魔法少女でもなんらおかしくはない。他分野を見ても、00年代初頭の小麦ちゃんやドクロちゃんあたりですでに「魔法を使わない魔法少女」はオーソドックスな笑いのネタとして定着していた。いや、でも、しかしさすがに「マジカル鎖鎌」とか「マジカル釘バット」は……うーむ。


  ドロワーズといったら『白詰草話』かな。SkyFish系列にもあったと思う。アダルトゲーム分野だと、他にはなかなか思い浮かばない。実際には、たぶん他にもドロワーズキャラはいると思うけど。『マージ』あたりのメイドキャラたちにはいたかも。
  その一方で、じゃぱにーず・とらでぃしょなる・あんだーうぇあ(褌)もある。『どんどこドーン!~真夏のこーふんどC~』と『どすこい!女雪相撲』が双璧で、これら以外にも『戦国ランス』のような擬似歴史ものなどでたまに出てくる。



  01/11(Thu)
  今回のこみトレ31には、佐々木氏のサークルは出られないのか。アダルトゲーム原画関係だと、あおぎり氏や亜方氏、それからchoco chip氏、ピロ水氏等々も参加されるようなので、できれば回っていきたい。


  声優界のベテラン持ち上げは、聞いていてモヤモヤすることがある。ベテランや「先輩声優」の横暴エピソードもたまに漏れ聞くが、そんなことが罷り通るのかとゾッとする話だったりする。声優(芸能人)も人間だし、社交上の配慮もいろいろあるのだろうし、「持ち上げられているベテラン声優は、生き残って周囲から持ち上げられるくらいのベテランになった(そのくらい実力の高い)声優なのだ」という観察バイアスがあるのかもしれないけど……。


  最近は隔週配信のwebラジオも増えているので、たまに毎週配信のwebラジオを聴くようになると、その更新スピードに衝撃を受けることになる。2本録りだとしても、パーソナリティも収録ディレクターも大変だろうなあ。


  アダルトゲームメーカー(ブランド)を擬人化したらどうなるだろうかと、ふと思ったけど、大抵はマスコットキャラや看板ヒロインがいるから、わざわざそんなことをする必要は無かった(あるいは、それらと被ってしまうので作りにくいだろう)。例えばLiLiTHだったら対魔忍だろうし、alicesoft(アリスちゃん)やSHC(「葵ちゃん(仮)」)はマスコットキャラがいる。Escu:deは……やっぱりハタヤマ君になるだろうか。ハタヤマ君は美少女ではないし、そもそもはたして「人」なのかという疑問もあるが。ざっと思い出してみて、マスコットキャラが作られていないブランドもわりと多かった。世間的には、「ゆるキャラ」ブーム以降、なにかしらマスコットキャラを作るスタイルが定着しているが、オタク文化界隈ではマスコットキャラ文化はずいぶん退潮しているのかもしれない。
  でぼ/e.goのように多作多産なブランドだと、看板キャラは決めづらいかもしれない。でぼ雀というマスコットキャラがいるけど(※ただし人間型ではない)。また、白箱系ブランドも「ヒロインはみんな同等に魅力的」という建前があるから、一人のヒロインのみに特別な待遇を与えることはしにくいかもしれない。その意味では、オーソドックスな人気キャラではなくネタ要素の強いキャラクターに、看板娘役やシリーズ常連キャラの役を任せるというのは、それはそれで理に適っている。と、こう書いて思い出したのはどこぞのカブ好きヒロインのことだった。

  身体の前面がズバッと真っ平らなラインには、得も言われぬ美しさがある。全体がスリムに引き締まっているとなお良い。
  実在の人物のトーク映像でも、「ああ、腕を身体の前でわちゃわちゃ振り回しても邪魔になるものが無くて動きやすそうでいいなあ」と思ってしまうことが……。個人の身体的特徴に言及するのは失礼だから、誰のこととは言わずにぼかしておくけど。


  気まぐれに「放課後戦争」ラジオを聴いてみたけど、やたらうるさい「ブッブー」連打に嫌気がさして途中でタブを閉じた。こんなラジオもう聴かない。誰だよこの無能なディレクターは。

  最近のonsenの番組は下品なエロネタコーナー(※性的な話題イコール下品という話ではなくて、ただ単にエロワードを連呼させて笑うだけのコーナー)が目立つし、ディレクターたちが本当にひどいんだろうなあ。聴くに堪えないので、聴くか否かの敷居をもっと引き上げて、よほどの方がパーソナリティでないかぎりonsenは開かないようにしよう。(幸か不幸か、その「よほど」の方々はいるのだけど。)



  01/09(Tue)
  今日もまた、財布の中のフクザワさんたちを人身bye-buyして現代市販美術品をたくさん購入してきた。ゲームもアニメも音楽も模型も書籍も漫画もそれ以外も、どんどん消化していきたい。


  【 否定的な側面を語ってよいか、述べるべきか、言うべきではないのか 】
  趣味や芸術――つまり非実用的な事柄――に関しては、たしかに「個々の作品が、どのような個性を持ち、どのような美質を備えているかを、語るべきだ」という原則が妥当する。これらの領域では、統一的な実質的価値基準や普遍的絶対的な実質的目標のごときものが存在しない以上、個別作品がどのような達成を成し遂げているかは、あくまで個別的に、なおかつ上積みで(ポジティヴに)評価するしかないからだ。換言すれば、さしあたり一般的な受け手の言論においては、「この作品は○○が出来ていない」といったようなネガティヴなことを述べる意味は無い。
  しかし他方で、趣味に関する発言およびコミュニケーションは、その都度、発言者当人の美意識を賭けたストイックな闘いでもある。ある人がある作品を称賛する言葉を発しようとするとき、その人は「その作品が優れているか」「その作品がどのように優れているか」に関する自らの美的判断をも述べているのであり、そしてそれゆえ、自らの美的判断(または判断力)を他人の前に晒し、その妥当性を問いかけることをも行っている。だが、その作品が「どの点が」「どのように」「なぜ」優れているかは、自動的に決まるわけではない。ある作品を称賛するとしても、そこに含まれる全ての要素を丸呑みで称賛するということにはならない。だから、例えば「私はこのゲームが『全体として』優れているという判断を、自らの美意識の信用性を賭けて公言しているが、ただしその中のこの声優の芝居については、あるいはこのシーンの不味さ、この深刻なバグ、この音質の悪さ、等々については、けっして良いと認めているわけではない。私の美的判断は、そのような欠陥を認識できないとか、そのような欠陥を良いものだと誤認しているとかいったことはけっして無いのだ」といったような個別的具体的な良否巧拙の腑分けは、行わずには済ませることはできない。そうした個別的な判断を無視して、「この作品は好きだから、そのあらゆる要素を丸呑みに肯定する」とか「この作品には良いところがあるから、その中の不出来な箇所については触れずにやり過ごす」といった姿勢は、作品評価としても不誠実なのではなかろうか。
  だから、自分自身の趣味を真剣に賭けて、なおかつ当面の話題の俎上に載っている作品の質に関して誠実であろうとするならば、ネガティヴな要素についても言及せざるを得ない場面は、どうしても出てくる。それは、「良いところと悪いところの両方を述べて『バランスを取る』」といったような愚劣な常識的態度ではない。作品のあらゆる要素を可能なかぎり直視し、それらに対する自らの価値判断をごまかさずに、そしてそれらを踏まえたうえで最終的に総体としての作品の到達点を最良のかたちで提示しようとする過程で、不可避的に通らねばならない道だ。
  このように考えているので、このブログでは個々の作品の不出来も、行論上言及する必要があるかぎり、あるいは私自身の芸術的価値判断に関わるものであるかぎり、遠慮なく口にするつもりだ。また、個々のクリエイターに対する評価も――良いものに対する評価も、駄目だと見做しているものへの評価もどちらも――、自分がここに書くすべてのテキストが常に自らの美意識を賭けた発言であるという前提で、なおかつ十分な根拠を伴うものであるかぎり、躊躇せずに表明していくつもりだし、実際これまでもそうしてきたつもりだ。芸術と思想は(あるいは芸術に関する思想は)、そのような厳しい世界だと考えている。「他の人が嫌がるから、ネガティヴなことは公言しないようにしましょう」などというお為ごかしに付き合って、自分の言葉の純度を下げたくはない。
  もちろん、人の心の常として、掛け値なしに大好きな作品や心酔しているクリエイターについては、ネガティヴなことは言いたくない。だから、そうした場合には、言及せずに済ませられるならば極力回避する。また、私ごときがあえて不平を述べる余地のないほど素晴らしい芸術作品は、世の中にいくらでもある。そうした場合にも、もちろんわざわざ素人が拙劣な粗探しをするような無駄な試みはしない。


  【 「痛○○」が持つニュアンス 】
  世の中には、様々な侮蔑表現や、侮蔑としての意味が薄れた表現があるのだけど、その中でも二次元オタク系の「痛○○」という言い回しはどう扱ったらよいのだろうか。元々は「痛い○○」、つまり「傍目にも痛々しく感じるほど恥ずかしく見える、オタクっぽい要素をあっけらかんと表現している事物乃至行為」という意味合いから出発していた筈で、それゆえ明確にマイナスイメージを突きつける言葉だ(った)。たしか「痛車」(オタクっぽいキャラクターイラストを大きくプリントした自家用車)に始まって、そこから様々な「痛○○」に広がっていった言葉だと記憶している。そして、当初はおそらく、それを趣味として楽しんでいる人たちを中心として、一種の自虐的含意を伴って、つまり文言上はネガティヴな評価であることが明確に意識されたうえで、使われていたように思う。
  しかし、現在ではこの言葉は、「萌え○○」と互換的な、あるいは「萌え○○」に取って代わった、ごく普通のニュートラルな表現として定着しているように見受けられる。……どうなのだろうか。
1) ネガティヴな含意は完全に消滅して、「萌え○○」と同義に使ってよいのか、
2) 局所的にはネガティヴな含意が表面化する可能性がある、デリケートな表現なのか、
3) 現在でも侮蔑的含意は広く認識されていて、親しい知人以外には使うべきではないのか。

  私見では、いわゆる「オタク」同士の間であれば、ほぼニュートラルに、つまり侮蔑的な意味合いは含んでいないごく一般的な言い回しとして、使われているように思われる。しかしそれは、そもそもこの言葉が適用される場面がごく限られており、かつまた、「痛○○」という言葉が理解できるような人々はほとんどの場合、同時に他人の「痛○○」に対して寛容なオタク系の人々であるがゆえに、結果的にコミュニケーションの中で侮蔑的ニュアンスが発生しないようになっているだけだ。そうでない場面では、容易に侮蔑的な(その趣味を「恥ずかしいもの」として見くだすような)意味作用が発揮されてしまいうる、きわめて危険な言葉だ。その毒性は、言葉の成立過程においても、また文言上自然に導かれうる語義解釈からしても、そしてオタク的趣味全般に対する日本(日本語)社会の文化的情勢によっても、依然として維持されている。

  今後とも私は、特別な意図無しに「痛○○」という言い回しを使うことは、しないだろう。つまり、明確に自虐や侮辱やブラックユーモアや揶揄などを目指す場合でもないかぎり、使わないだろう。

  「萌え○○」と「痛○○」の違いについては、7年前にも書いていた。
  [ twilog.org/cactus4554/date-101229 ](16時29分以降)
  ログを読み返してみると、2010年末の時点ですでに、「痛○○」から否定的ニュアンスは消えていると認識していたようだ。たぶんそうだっただろう。また、「萌え○○」は対象となるイラストやキャラクターのクオリティに注目する表現であり、「痛○○」というのはその用いられ方に力点が置かれているように見えるという感じ方は、2018年現在の一般的用法ではほぼ失効しているように思われる。00年代末には、「萌え」という言葉自体がすり切れていて、すでにかなりオールドファッションなものになっており、少なくとも、特別にプレシャスなオタク的価値のイメージを喚起するようなものではなくなっていたので、その言語的間隙に「痛○○」という表現が入り込み、成り代わったということではないかと思う。ただ単に「萌える」のではなく「痛い」のだと述べることになるその表現は、その過激さもあって、使ってみたくなる魅力を持っていたのだろう。

  他の例をもう一つ挙げておこう。今もまさに使っている、「オタク」という言葉。これは侮蔑的意味合いを含むのだろうか。使ってよいのだろうか。
  この言葉については、文言上即時かつ絶対的に特定の否定的含意が現れるというようなものではないし、成立過程についても様々な説があるようだ。その中でも、最も極端に侮蔑的な解釈として、「即売会などで、相手に対して『お宅』と呼び合うという、奇妙な距離感で特殊なコミュニケーションを取る連中」というものがあり、もしもそのような経緯が存在してその含意が意識化されて表面化するならば、それは社会的な不当な差別にコミットする発話行為であるとの政治的嫌疑を免れないだろう。
  しかし、その言葉が共有されている社会における支配的用法が、成立史および語義に関するそのような解釈を採らず、あるいはそうした認識を完全に捨て去っている場合には、「オタク」という適当なカタカナ3文字の単語は、差別や自虐に囚われないニュートラルな表現として使うことができる。私自身は、ご覧の通り、平気で多用している。それは、「指示したい対象集団を呼ぶ適当な言葉が他に存在しない(せいぜい「マニア」「サブカル」「インドア派趣味者」「数奇者」「好事家」くらい?)」というプラグマティックな事情の他にも、「その言葉が辞書的には侮蔑的意味を持つことが一応あり得る言葉だとしても、実際には、オタク差別をもたらすような含意をけっして持ち得ないような文章(文脈)の中で、そしてそのような否定的攻撃的な意味を担わないような形でのみ使用している」つもりなので、使っていても構わないと考えている。

  言葉というのは、不自由なこともあるが、基本的には自由なものだ。例えば、「ご覧の有様だよ」という例の有名なフレーズを、なんらかのかたちでたまたま知って使ってみた人が、その言葉が成立した経緯(元ネタとなった特定の作品にまつわる諸事情)をまったく知らないままであるということは、当然あり得るし、あるだろう。そのフレーズを使ったからといって、特定の作品に対する侮蔑が自動的絶対的普遍的客観的に発生するわけではない。私たちは、自分が現在使っている言葉の大半について、その成り立ちを知らないし、そして、無知のまま言葉を使ったとしても、ほとんどの場合、責任は無い。その言葉を聞かされた他人が不快になったとしても、その作用の評価は、きわめて重大な帰結――甚大な差別的危害――をもたらす場合を除いては、慎重を期して対応すべきだろう。

  まあ、例えば「かゆい うま」ネタのように、知っていた方が楽しかったり有益だったりすることは多いし、あるいは「かぞくがふえるよ!」ネタのように、意外なバックグラウンドを伴っていて、予期せぬ意味合いを持ってしまう危険のある言葉もある。また、「せっかくだから俺はこの赤の○○を選ぶぜ」ネタが使われ続けている状況は、もしかしたら不幸にして拙劣な芝居を記録に残してしまった特定個人の心を傷つけているかもしれない、といったことを意識しておくくらいには、言葉の背景的事情を知っている人々はその知識に応じたデリカシーを持つべきだろう。



  01/04(Thu)

  【 画面分割についてのメモ 】
  画面分割の諸相についてまとまった展望を示しておきたいのだが、よい分類枠組の構想も出てこないし、実例収集も難しくて、執筆に着手できずにいる。さしあたり、一方には「AVGの一時的局所的なカットイン(およびその発展)」があり、そして他方の極に「SLGなどの機能的組織的な分割」がある。双方の間に適当な中間項が作れれば、それらしく体裁が整いそうなのだが。さしあたり思い当たる実例としては、『白詰草話』『銀の蛇 黒の月』型の動的画面構築と、『漆黒のシャルノス』型の静的多層的レイアウトの二種類があるが、これらをどのような視点で評価し位置づけたらよいだろうか。
  「カットイン」という場合、通常はメイン画面に対して一時的に挿入される小さいフレームを指すが、『あまつみそらに!』のように、分割された複数のフレームの間に主/従の関係が確立されておらず、事実上対等のプライオリティを持つという場合もある。また、Littlewitchの『白詰草話』ではベースとなる背景画像が存在して、それを共通の土台としてその上に複数の画像フレームが行き来するスタイルだったが、同社の次作『Quartett!』ではそのようなベース画像が存在しない場合が多く、よりいっそう融通無碍に画像同士の組み合わせが行われるようになっていた。こうした多様性を、なんとかして一つの理論的フレームワークの下でうまく評価できるようにしたい。
  このテーマは、「AVGの画面とは何であるか」という問に深く関わるものだし、AVGとSLGを統一的に捉えて論じたいという考えにもつながっているし、さらにもう一つ、話者欄(顔窓)を画面構成全体の中で体系的に扱うことができればという思いもある。


  01月01日だと、なにやらPCの設定が初期化されてしまったようにも見えてしまい、日付表示が視界に入る度にその錯覚にドキドキしていたが、無事にその一日が過ぎてくれてほっとしている。


  【 笑いの様式(笑いと様式) 】
  十年以上前の作品だと、笑いのセンスが現在の私(たち)のそれと懸け離れていて、どうにも楽しめないということが間々ある。悲劇や知的刺激とは異なって、笑いやおかしみに関する意味作用は、その都度の文脈に――特定の時代、地域、社会的集団等の文化的な共通了解に――大きく依存しているのだということが痛感される。そしてそれはまた、そうした個々の作品が、同時代の感性に敏感に反応していたことの、あるいはその時代に特有の新たな笑いをみずから創出していたことの、明らかな証左でもある。
  ただし、言語上の笑い(ギャグなど)はもちろん、視聴覚表現におけるユーモアやスラップスティックの表現に関しても、ゲームの場合は「笑い」の表現文法(を下支えするメカニズム)はそれほど極端に変化しているわけではないため、昔のタイトルでも、まだしも素直に受け入れて楽しむことができる(――しかしそれは、表現様式が、笑いの表現の振れ幅を制約しているということでもある)。しかし、アニメの場合は、カメラワークから会話のテンポから、色彩設計からデフォルメの流儀まで、ドラスティックな推移変転が生じてきているため、ある時代には通用していた笑いのコードも、別の時代には完全に失効してしまっているといったことが生じやすいように思われる。


  いろいろと買いたいものもあるし、物色したいところもあるので、来週あたりに日本橋遠征に行こうかと考えている。しかし、二週間後の「こみトレ」の後に(ことによると知人と一緒に)日本橋まで足を伸ばすこともあり得るので、その時でもいいかなとも……。


  そういえば、民安氏のラジオトークは常にきちんとした「です・ます」調なのも、聴きやすさの一因になっているかもしれない。もちろん、ツッコミ台詞などに際して、フリとしてフランクな口調を使っておられる場面はあるし、語調それ自体はたいへんフレンドリーなのだけど、言葉としては折り目正しい喋り方をずっと維持されている。
  トークの相方が先輩格の役者さんだったり(例:まき氏)、同業ではない仕事相手だったり(例:三ツ矢氏)、あるいはパーソナリティとしてゲスト(客)を迎える側だったりすることが多いというせいもあるかもしれないが、トークの雰囲気を聞くかぎりでは、どのような相手でも敬語を使っておられるのではないかと思える。


  ※「メディアミックス作品と解釈の余地」の文章は、後日の別ページ「『伏線』再論」に移した。



  01/01(Mon)

  【 メカ少女のデザイン 】
  アダルトゲーム界隈で、メカ美少女のデザインが達者なイラストレーターさんといったら、どなたが挙げられるだろうか。
  蔓木鋼音氏の『ソレイユ』(2007年-)での一連のキャラデザは、メカというよりはファンタジー甲冑にルーツがあるかと思われるが、そのセンスはメカ美少女趣味の現代的潮流にも十分乗れる方向性にあると思う。
  わふわふな『シンシア』のEin氏も、工画堂の『Gadget Trial』(非18禁、2006年)で、美少女キャラと兵器が融合したキャラクターたちを可愛らしく描いた。作中では、戦闘シーンの迫力ある一枚絵も多数描かれている。ご自身のサイトでも、すっきりしたプロポーションのデフォルメ美少女と、ドットワーク風のカラフルな色彩感、そして清潔感のある曲線的なメカデザインを巧みに組み合わせたイラストを多数描いておられたと記憶する。
  こつえー氏は、アダルトゲーム分野のタイトルとしてはロボットやメカ少女のデザインを手掛ける機会は無かったかと思うが、これまた工画堂の非18禁タイトル『蒼い海のトリスティア』シリーズで何体ものロボットを描いてきた。この方は、すでに近年のメカ美少女プラモのムーブメントに参画している。
  あとは、『ジオグラマトン』のしのづかあつと氏、『JINKI EXTEND』の綱島志朗氏(メインは漫画家と言うべきか)、『とらハ』と『なのは』の都築真紀氏、それからalicesoftだと織音氏だろうか。ダーク系の変身ヒロインものだと、『クラインハーゼ』などの斎藤なつき氏/夕暮ぱいろ氏、『ミストルティア』などの緑木邑氏、『R.U.R.U.R』の泉まひる氏……。
  アダルト美少女ゲーム分野は、その性質上、メカ美少女ものの才能を育むことにはあまり傾注してこなかったと言うべきだろうか。もっとも、「メカ美少女」それ自体がマイナーな嗜好であり続けていたという事情もある。


  一枚絵の枚数は、00年代半ば頃のフルプライス級では平均100枚弱だったが、00年代末以降は90枚台前半~80枚台程度に減っている。減少の理由のは、原画家の作業速度や脚本構成などの問題ではなく、着彩の手間が増大しているためではないかと想像している。解像度上昇とワイド化、そしてクオリティ要求が重なって、00年代後半以降のアダルトゲームCG制作はかなりの高負担になっていると思われる。クオリティアップが(表見上の)ボリュームダウンにつながってしまうというのは、いかにももったいない話だが、解決しづらいジレンマだ。


  (→2018年2月2017年12月