2017/07/31

2017年7月の雑記

  2017年7月の雑記。(→8月6月


  07/31(Mon)
  拙い言葉ながらゲームシステムを語り、視聴覚演出を語り、声優を語り、美術的側面を語り、コンセプトデザインを語ってきて……、つまり、ゲーム表現に対して適用可能な諸概念の道具立てと、それらを客観的に比較し位置づけるための体系的枠組とを一応手にして、いまや私はゲームの総体的な体験の言語化に取り組むべきなのかもしれない。
  参加的なデジタルゲームとしての一つ一つのタイトルが、それぞれ作品全体としてどのような体験の質を提供してきたか。ユーザーの意識に何をもたらしたか。例えば、この作品はこの原画とこの彩色とこのキャスティングとこの音響とこのテキストとこのフラグ体系の組み合わせによって、総体としてどのような体験空間を作り出しているのか。あらゆる要素のあらゆる瞬間における相互作用と共働的成果を見逃さず、一つの作品という暫定的な区切りの中でそれを可能なかぎり言葉にしていくことだ。
  あるいは、例えばalicesoftのゲームバランスは、どのような観点でどのように評価されるべきか。例えば、Escu:deの複雑精妙な構築物にはどのような個性があるのか。例えば、ソフトハウスキャラが様々な形で提示してきた作中世界の手応えは、どのようなものであったか。例えば、ぱれっとやPurple softwareやLittlewitchは「ゲームとは何か」「ゲームの画面とは何であるか」という問に対してどのような答を出したのか。HOOKSOFTの一連の試みに対して、ユーザーはどのように応答するべきなのか。『アリスマチック』や『淫妖蟲』や『レイライン』や『ぼーん・ふりーくす!』や『瑞本つかさ先生』や『ゴア・スクリーミング・ショウ』や『恋神』や『days innocent』や『あねいも2』にはどのような特有の意義が見出せるのか。個別作品の内容そのものを取り上げて語ることを、私はこれまでほとんどせず(出来ず)にきたが、いずれ結局は取り組まねばならないだろう。ただしそれは、すでに無数のゲーマーたちが個別作品レヴューとして取り組んできた営みに他ならないのかもしれないが、私自身もどういう形であれいずれは向き合わねばならない。

  もう一つ、本当の実質的作品論と並んで、系統立てたブランド論にも、いずれ取り組まねばならなかった。ただし、そのようなことを語るためには、一つのブランドの作品群をきちんとプレイしきる必要があるが、残念ながら私にはそこまで熱心に取り組んできたブランドはほとんど無かった。ソフトハウスキャラにしても、昔の作品のフラグのディテールやプレイングの感触やイベント進行の大きな流れは、もうあまり憶えていない。

  これまでの蓄積を踏まえつつ、形式的な表現技術を取り上げるのではなく実質的な個別作品のトータルな評価に踏み込もうとした試みとしては、「CGワーク」記事の最後の方で『さよならを教えて』や『夏めろ』や『らくえん』を俎上に載せたくだりがあったけど、そしてそれらはわりと私らしいアプローチと私らしい筆致で書くことができたとは思うけれど、ただしそれらは例によって「最初に最強のカードを出す」ポリシーで行けるところまで行ってしまったので、そこから同等以上の水準で個別作品の検討を積み重ねていけるかどうかは少々疑わしい。



  07/28(Fri)
  「佐藤利奈」の四文字は最高級の品質保証マークみたいなもの。
  所を得た100%の芝居を聴くことができるという安心の印。


  えー、「オタクはみんな恋愛にウブなお子様」みたいなオールドファッションな偏見で語る人がいるのか。今時それは無いなあ……。恋愛経験や人生経験を――仮にそういうものが測定可能だとして――比較してみたら、「オタク」と「非オタク(あるいは日本人全体など)」とでは統計的な違いはほとんど無いんじゃないかなあ。もちろん、オタクの中には恋愛経験の無い人や世間知らずな人もいるだろうけど、オタクとは見做されない人々の中にも同じようなタイプの人はいるだろう。それをオタクのみに帰するのは、偏見というものであり、また(帰せられた属性が否定的なものである場合には)侮辱や差別と言うべきものだろう。


  大橋氏の出演しているショートアニメと言えば、『ノラとと』の前に『だぶるじぇい』が。BGMボリュームが大きくて台詞が少々聞きづらかったが、「胃~之煮」ラジオドラマにも通じる横紙破りし放題のハチャメチャ展開はわりと楽しかった。「えっ、このお声は瑞沢渓氏か?」と思ったら小林ゆう氏だったという体験もあった。

  引き締まったアルトヴォイスは、声のトーンそれ自体は似ていなくもないし、クールな中にもしっかりと芯のある感情を乗せてくるところ、台本の理解が機敏かつ的確でとても流れの良いアレグロの芝居をされるところ、そしてもちろん全体的な完成度の高さも、共通していると言えばしているけれど、芝居のスタイルとしてはそんなに似ているわけではない……と思う。


  大橋氏の担当キャラに、ブルー系デザインは多かっただろうか。ざっと調べてみると:
◎宇佐美はじめ:頭髪や制服がウォーターグリーン。
◎あおい:名前はもちろん、頭髪、虹彩、上着、靴、変身時まで水色。
△星野歩:シャツが水色というくらい。寝間着や法被もブルー系だったか。虹彩はパープル。
◎エイラ:制服がスモークブルー基調。虹彩は彩度の低いパープル?
△アデーレ:大きなマントと虹彩がアイアンブルー。頭髪はブロンド。
-ユウラシア:姉妹と比べると赤色がイメージカラー。セルリアンブルーの鞄を持っている程度。
-沢村智紀:服装がモーブ色(青紫)という程度。黒髪は暖色系(マホガニー)。
-おりょう:虹彩がアイアンブルー、頭髪もブルー気味のブラック。眼鏡はガーネット色。
-青木百々:制服(共通?)がコバルトブルーという程度。一応名字も。赤いベレー帽が目立つ。
△北条莉華:目立つ色は虹彩の水色くらいなので、一応ブルー系と言えるか。
-鬼瀬針音:制服(共通?)はホワイトとインディゴブルー。頭髪はピンク、虹彩は金色。
-優木あんじゅ:頭髪はブラウン。アイドル衣装はミッドナイトブルー?
○大曽根さち子:虹彩や寝間着が水色のようだ。
※アナナ(不明)
※徳田寧々(不明。制服のスカーフがブルー?)
※壁谷真理(不明)
※アユミ(不明)
※茨城まり子(不明。ブラウンヘアーのキャラ?)

  所属事務所のアニメ出演作を、おおまかに出番の多さで並べたもの(※主演級~レギュラー級~サブキャラ~スポット登場~不明)。こうしてみると、「私、水色になんかゆかりがあって。(…)水色を着てたり、水色の髪だったりっていう女の子にすごい縁があって。(…)だから、はじめちゃんを見た時に、『おおっ』て。私、吸い寄せたのかなって」というコメントは納得のいくものだ。ブルーではなく「水色」に限定しても、「宇佐美はじめ」「あおい」「エイラ」の主演/レギュラー級の3人が当てはまる。ただし、それ以上に、やはり眼鏡率の高さが目を引くが。
  そういえば「セキセイ丸」も水色のようだ。役を持ってきてくる優秀な使い魔なのかも。


  関係ない話になるが。新作『恋姫†無双』、『11月のアルカディア』、『英雄*戦姫』も青系キャラ(青髪キャラ)だけど、卯衣先生の場合はむしろ元気系赤髪キャラの方が多いかも。


  「轟け」が250回到達。2008年10月から数えてもうすぐ9年か。
  節目に来たので、そろそろ概要整理も書かねば。



  07/25(Tue)
  LNAF.OA#20。「当たりません、当たりません。はい、もう何年も『素人』でやってますんで」。
  塔、愚者(逆)、隠者(逆)のダメージを、こんな形で身を切ってフォローされるとは。

  一年後の占いをさせることで一年後の再出演を確保しようとしたり、カードが良くなかったからと引き直しを要求したりといった野川氏のよこしまな企みがタロットに祟られたのでは……。


  「意志を持って喋る剣」ネタはどこまで遡れるのだろうか。
  アダルトゲームでも、『Rance』シリーズを初めとして、『アセリア』シリーズ、『天神楽』、『シュガーコートフリークス』など、いくつもの作品に登場する。『Rance』の日光とカオスは、元々は人間だったのが、神様に頼み込んで、魔人の結界を突破できるような刀剣に変えてもらったという話だった。『THE GOD OF DEATH』の死神ミズチは、心を刈り取る鎌に変身することもできる。というか、鎌が本体だったかも。『あおぞらマジカ!!』は杖キャラだが、こちらも人の形をとることができる。クールな咲ゆたかヴォイスで、おどけた後野祭氏(主人公)とのラブイチャ漫才を繰り広げるのがとても楽しい。『ク・リトル・リトル』では、男性主人公が武器(武装)に変化させられる。モブユニットのレベルでは、例えば『BUNNYBLACK』シリーズには、剣の魔物「ズンバラ」たちが登場する。
  「魔剣」「妖刀」の能力(例えば呪い)を表現するうえで、剣それ自体に人格を持たせるのが便利ということかもしれないし、剣士と同行二人でストーリーを作りやすいので、ネタとして多用されるのかもしれない。似たようなタイプとして、武器に霊が憑依するものもある。

  ……といったようなことを、『黒鉄』の読後感の中でぼんやり考えていた。


  [ w-witch.jp/character/img/detail/detail_img08_17_2.png ]
  おや、11/11生まれの設定なのか。ボクキャラということくらいしか知らないのだけど。

  いのくちヴォイスの館林火奈ちゃんと同じ誕生日なのが自慢です。えっへん!


  胃・ラフ#38は、いろいろと考えさせられる。役幅、兼ね役、多人数収録。
  たしかに声優は、いわゆる「中の人」としてキャラクターの掘り下げに終始立ち会い続ける裏方の存在でもあるが、同時に視聴者に対して最も近い位置に立ってキャラクター表現を行い続ける、いわば「ガワ」の存在でもある。そのため、声優当人の個性(表現上のアイデンティティ)が、配役される役柄の選択と強く結びついてしまいやすいというのは、あり得ることだろう。アニメ制作の基幹スタッフが「このキャラはこんな性格にしたい」と考えた時、「まさにこんな性格を得意にしているこの声優を宛がえばいいのだ」と考えるのは、それ自体としてはまったく自然なことであり、きわめて合理的なやり方なのだ。
  そして、ただし、しかしながら、声優の地位やアニメキャラクターの造形に関する様々な内的外的事情(モブキャラの減少やガヤ機会の減少や声優のアイドル化)によって兼ね役担当が激減し、さらに一つのアニメ作品に大量の役者が収録参加するようになってきている。そうするといよいよもって、一人の声優が多面的な芝居を披露するよりも、多数の声優がそれぞれ特定のタイプの芝居を分担していく方が、制作上は理に適っていると言うことができる。ただし、こうした状況下では、マエストロが危惧しているように、一芸特化した声優ばかりになっていく可能性がある。
  こうした現状認識がどのくらい正しいのかは分からない。そしてまた、そうなるとして、そうなることが良いことなのか悲しむべきことなのかも分からない。声優というもののあり方(ポテンシャル)にとってどのような機会が与えられることが望ましいのか。また、アニメ作品のポテンシャルを最大限汲み出していくためには、声優がどのように起用されるのが望ましいのか。そして、アニメ制作過程を合理化していくうえで、音響制作パートはどのようなあり方を目指すべきなのか。

  さしあたり自分なりの直感的判断を述べておく。まずは役柄について。もしも一人の役者が演じる役柄が固定化するとしても、それ自体ではけっして悪いことではないと思う。まずは一つのタイプの役を突き詰めていくだけでも十分難しいだろうし、それを試行錯誤していくことはすでにいて役者の創造的な仕事であるに違いない。似たような役だとしても、けっして同じ役ではないのだし、そもそも他の役と似ているかどうかも問題ではない。その都度の台本に即して、その都度の座組みの中で、その都度最高の解釈を追求するのが、役者の仕事だろう。役者当人にとってそれが役に立つか、成長に寄与するか、経験になるかという点でも、私はあまり心配していない。
  兼ね役/多人数収録の件は、両義的に思える。アニメ声優が芝居をするのは、そして芝居の現場で経験を積んで成長するのは、やはり実際に声を出す瞬間に他ならない。一回のアニメでほんの数語しか声を発しないような現場では、声優の芝居の実践的成長は緩慢なものにならざるを得ないだろう。ただし、声優(志望者)が激増している現状では、そうした多人数参加システムは、多くの人材をプールし続けるという効用を果たしているかもしれない。
  どんな種類の役であれ、長大なアドヴェンチャーゲームの収録で大量の経験を積んで表現技術を高めつつ、アニメ作品では他の役者たちとの同時収録に揉まれて芝居の感性を磨きつつ、そしてできれば舞台公演もして全身でキャラクターを化体させる経験も積んでいくというのが、おそらく理想的な芸道の実践なのだろう。

  F咲UサがCCキャラばかり演じていても、誰もけっして停滞だとかマンネリだなどと思いはしないだろう。その都度新たな表現が、新鮮な表現が、真に迫った表現が、感動的な表現が、キャラクターの開拓と深化と現前が、そこにある。それが出来るのが優れた役者というものだろう。

  それにしても、「香盤表をちゃんと見てきていない(ので、自分の担当になっているモブキャラ台詞を見逃す)」というのは、さすがに役者としてひどいと思うが、そんなのが本当にいたのか……。


  旧ブログから通算すればもうすぐ丸6年間、振り返ってみれば、よけいな紛糾騒擾に巻き込まれることが一度も無かったのは幸いだった。もしかしたらどこかで何かあったりしたかもしれないが、少なくとも私が認識するかぎりでは一つも無い。反発を覚えた物事について、こちらから攻撃的な言及をしたことは何度もあったけど、それらについても別段どこかに影響を生じたことも無さそうだ。これからも平穏無事に生きていきたい。

  帰宅が遅くなった時は、家から20分ほどの交通機関からゆっくり歩いて帰宅することがある。周囲の家々の灯りと賑わいを尻目に自分は一人でフラフラと夜の闇に紛れて歩みを進めていくと、まるで自分が現世から離れて幽霊になったような気分になる。それが心地良い。
  ただし、いかに日本とはいえ、絶対に安全というわけでもないので、それなりに気をつけておく必要がある。たとえば学部時代も、春先の夜中に下鴨神社周辺を能天気にフラフラ散策していたら、一見紳士的だけどなにやら不思議な雰囲気を持った男性が近づいてきて……。大事にはならなかったけれど、お互いのためにも危うきに近寄らない姿勢は必要だよね、うん。


  『つれゲー』……こんなDVDシリーズがあったのか……。出演者の顔触れがすごい……。



  07/22(Sat)
  アニメ公式サイトの円盤発売情報ページで、あれやこれやの特典情報はこれ見よがしに載せていながら、肝心の収録話数が書かれていなかったりするのを見ると、本末転倒っぷりにもやもやする。収録されているものの中で、アニメ映像こそがメインコンテンツじゃないのか? 第何巻に第何話が収録されているかは、最優先で知らせるべき最重要の情報ではないのか?
  1)全巻購入を想定しているので個別話数は問題にしていないのか、2)あるいは逆に、内容に応じたつまみ食い購入を避けたいのか、3)既放映のコンテンツなので優先度を落としているのか、4)二話収録がデフォルトになっているから当然視しているのか、5)単なる(そして致命的な)チェックミスなのか……。
  この件に限らず、ユーザーにとって必要な情報が掲載されていないことはよくある。例えばアダルトゲーム公式サイトでも、発売日情報が見えづらいところにしか置かれていないというのは散見される。webのコンテンツデザインがいまだに未熟なのか、その分野またはその制作チームがたまたま気の利かない人々だったのか、それとも様々な当事者利益によってユーザーが不利益を強いられているのかは、ものによって異なるのだろうけど。
  ただ、BD/DVDのディスク現物で、パッケージ外面に収録話数が明記されていないというのは、さすがにひどすぎると思う。オビに小さく書かれているだけというのは、非常に困る。私としてはオビはあくまで「おまけ」という認識で、廃棄してしまうか、あるいは折り畳んでパッケージに仕舞い込んでおくのだが、そうすると収録話数などがまったく分からなくなってしまう。パッケージをきれいにするのもいいけれど、行き過ぎると本末転倒になる。


  先日の記事に一章追加。いろいろ加筆していたら1万字を超えてしまったが、そのおかげで久しぶりに『イマ』にも言及できた。『アリスマチック』も、もう一度ちゃんとプレイしたいなあ。


  西沢広香氏と西口有香氏を混同しかけた。(以前も同じことをしていたような……。)
  アニメ版『恋姫†無双』の張飛役が西沢氏で、七瀬優の中の人が西口氏。

  「尾崎」氏も、ちゃんと憶えていない。『どき魔女』にも出演されているのがCHKの未來さんで、えーと、『ユメミライ』などに出演されているのはPRの真実さん。


  現代的なマルチメディア展開戦略。
  情報化社会における旧作リバイバルの活発さ。
  ゲームやライヴイベントに見られる参加的体験的性格の強調。
  ソーシャルゲームに典型的な作品コンテンツそれ自体の追加形成。
  大掛かりな世界設定の下での柔軟な続編制作という制作管理手法の普及。
  部分的には経済的困難に由来する、続編やFDや漫画連載継続や長期間アニメの困難。

  いまやオタク界は――オタク界もまた――近代的な「作品の完結性」の観念をほとんど放棄して、集合的/不確定的/動態的/開放的/参加的/体験的/質料的/人工的/非人格的/間主観的なワーク・イン・プログレスの原理に取って代わられつつあるのかもしれない。幼時に楽しんだ作品が現代的な装いの下に様変わりしてリバイバル新作として制作されることにも、また、ストーリーの続きに含みを持たせつつも2期がちっとも制作されないアニメ作品にも、さらには自分たちの記憶とそのよすがとしてのグッズ類以外には一切何も形の残らない一回性のライヴイベントにも、付き合わねばならない。それは、たとえばアニメ化に際してのオリジナル声優維持のような狭隘な原典主義とは異なった芸術観を前提としており、その自由で柔軟な反クラシシズム的気風はそれはそれで快いものにもなり得るが、同時にその風の厳しさが肌に痛いという場合もあるだろう。


  【 ムチムチ、ムキムキ 】
  ここ数年のことだろうか、同人やネットで見かけるお色気イラストの裸体表現が、どんどんムチムチムキムキデコボコになってきて、若年女性キャラでも女性の身体と認識するのがほとんど困難なくらいになりつつある。素肌の陰影表現がやたらしつこくなって肉付きのリアリティを超えてしまっており、身体の柔らかさの質感がほとんど犠牲にされているし、過度の描き込みはイラスト全体の見せどころを散漫なものにしている。また、腰回りも異様に厚ぼったくて、(おそらく当初は意図されていたのであろう)多産性の印象からも離れてしまっているし、太腿も丸太のように太くなってイラスト全体の中で巨大な面積を占めたりするし、もちろんバストも際限なく増量されていく。それでいて頭部(顔面)の描き方は従来通りのすっきりしたデフォルメのままなので、首だけ挿げ替えた人形のようにすら見える。手先も、なまじ描き込みを細かくしたせいで、まるで男性の手のようにゴツく見えて、可愛らしさが無くなっていたりする。
  近年のオタク系お色気イラストのこのような美意識の形成に対する重要なきっかけとなったのは、00年代初頭以来の石恵氏の継続的業績であったかと思われるが、直接的な原因は、技術的環境的諸要因――すなわちイラスト作成ノウハウの共有(指南本の大量発刊)、SNS等における技法共有および流行共有、画像処理ソフトの性能向上――だろう。出来ることを増やし、描けるものを増やし、塗り込みを増やしていった時に、全体としてはどんどんエキセントリックな方向に進んでいく。古代の土偶の一見奇妙で不格好なデフォルメもこんなふうにして独自の発展を遂げたのだろうか。あるいは、単純な加算の中から独自の美意識が生まれてきていると言うべきなのかもしれない。例えば、「腋」の官能性に対する意識は、まさに明暗のグラデーションの濃い素肌着彩の中から発見され開拓されてきたものの一つだろう。
  もちろん創作表現が現実感覚に服従する必要は無いし、現実感覚からの離脱は「受け入れられなくなる(理解できなくなる)人が増える」と「新たな魅力の開拓によって、よりいっそう人を惹きつける」の二つの側面があり得るのだけど、彼等の行く末はどのようなものになるのだろうか。

  個人的には、服飾の描き込みがきれいに(緻密に)なってくるのは歓迎しているし、一時期のような重力無視の風船バストがかなり減ってきているのも嬉しいが、女性キャラの身体はもっとほっそりしていたり、もっとつるっとしていたり、もっとやわらかそうだったりしていてくれる方が、見ていて安心する。ただし、前世紀の「ぷに系」もあまり好きではなかったが。

  アダルトゲーム分野の裸体表現は総じてマイルドなままであり、腹部もせいぜい臍周りのディテールが描き込まれていたり、腰骨の出っ張り(上前腸骨棘というらしい)が表現されていたりする程度に収まっており、複雑な凸凹陰影が塗られることも少ない。ただし、年上ヒロインもののピンク系タイトルなどでは、豊満さを誇張した人体描写が伝統的に行われている。


  [ shchara.co.jp/04develop/26kizoku/story/world01.png ]
  このマップを見ると、主人公の領地は、山を越えて敵国側に突き出している出島、あるいは飛び地みたいなところなので……要は超危険地域。こうした火薬庫地域には、1)信頼できる重鎮貴族を置いて睨みを利かせる、2)強力な部隊を駐屯させておく、3)保持できているだけ儲けものと、いつ死んでもいいくらいの小物を派遣しておく、のいずれかになると思うが、ブラウベル王国の対処は2)だろうか、それとも3)だろうか。さすがにこの地域の領主を国内政治で冷遇なんかしたら、あっという間に隣国側に寝返られそうなものだが、王位継承問題に気を取られてそこまで気が回らないのだろうか。あるいは、多大な戦功を挙げた主人公を、戦力としては信頼しているのか。

  システムとしては、『グリンスヴァール』型(いわゆる箱庭開拓)に、『門』の政治要素(勢力間好感度)を加味したような形になるのだろうか。もっとも、『グリンスヴァール』にも、学園に対する各国の好感度パラメータがあって、好感度が低くなると攻め込まれていた。それに対して『門』では、各勢力の好感度は、戦争発生とは無関係で、資金獲得やイベント発生に影響していた。



  07/18(Tue)
  ようやく新作チェック&予約も済ませたが、最近は眼鏡主人公や傘キャラのチェックも見逃しがちになっている。あらためて真面目に取り組んでいきたい。


  [ shchara.co.jp/04develop/26kizoku/2character99.html ]
  さすがだ、ソフトハウスキャラ! 顧客の望むものを理解してくれている! ありがとうございますありがとうございます! 一条氏もいらっしゃるし、サブヒロインも綾音氏&八尋氏と堅実に固めてくれているし、これでキャスト面の不安は無い。(ただし、春日氏や蝦押氏がいないし、藤邑氏は苦手だったりするけど、望みを言ったらきりがないし、我慢するしかない。)

  ただし、ここまで継続的に起用されているのは、ユーザー受けを狙ったサービスのためばかりではないだろう。同社が16年前の『真昼に踊る犯罪者』(2001年発売)で初めてキャラクターヴォイスを付与した時から、大波氏は可愛らしい看板娘(アーティ)だったし、青山(羽賀)氏はその存在感をもって物語の核心部分(山春日霧姫役)に立ち続けていた。そこから『ブラウン通り』『巣作り』『グリンスヴァール』でのダブル主演があり、『王賊』『BB』『アウトベジタブルズ』『PD』でも人間関係の要所にしばしばこの二人が配置されてきた。それだけの十分な実績の蓄積とそれに対する信頼と、それからおそらくは制作スタッフからの敬意や好意もあってのことだろう。とりわけ脚本家にとっては、当て書き(特定の役者をあらかじめ想定して書く台本)のしやすさも重要だろう。

  それでも、内藤ワールドを卯衣キャラや桃山キャラや木村キャラやももぞのキャラや美月キャラや後野キャラや秋野キャラやルネ山キャラや陽月キャラや鈴田キャラが楽しく闊歩し生活し活動し交流する風景も夢見ているし、もしも叶うならばまた松永キャラや桜川キャラや星咲キャラや金松キャラや西田キャラがお声を聞かせてくれたらと願ったりもする。特に後野氏は、SHCの軽妙でしたたかで知的で複雑でバランス感覚の取れた趣味人な主人公を演じるのにぴったりだと思う。


  世界設定でいうと、魔法や怪物の存在が忘れられつつある時代とのことだから、SHC共通世界の中ではかなり後の時代と思われる。『門を守るお仕事』あたりの時代かもしれない。ギルド(職人連合)は『ブラウン通り』『門』にもあったし、教会も『門』に出てきていた。
  「ブラウベル王国」は『Wizard's Climber』のクインズベル王国を多少連想させるし、隣接する「ネスト王国」は『王賊』のヴィスト王国やキャラクター「ムスト」を連想させるが、単なる偶然の類似か、あるいは国名としてありがちな名前としてネーミングされているのかもしれない。

  それにしても桃組若手は、宝塚っぽいお名前の方が多いなあ。


  イカのシューティング……。『とびでばいん』……。


  正式な表記は『あかときっ!2』(つまり「あかときっ!」の2作目)ではなくて、『あかときっ2!』(つまり「あかときっ2」だよ!)なんだね。なんだか『トップをねらえ2!』みたいな。


  身長差カップルには心萌え立つものがありますよなあ。(もちろん精神的にはぴったり対等で)



  07/16(Sun)
  音楽は素晴らしい。技術の中でロジカライズされた感性的創造。

  楽譜を読む行為と、ゲームの攻略記事やTRPGのルールブックを読む行為の間には、どのような共通性があり、いかなる点に相違点があるのだろうか。明確に構造化された状態として作品を認識してはいるが、現実の音響としての具体的形姿を取らず、演奏という現前性を伴わない状態。全体構造および展開可能性をすべて認識することができるが、現実の具体的個別的な運行を取らせるには至っておらず、プレイイングという参加性を伴わない状態。


  昔の作品の方が、声優のことを考えずに作品を楽しめているようだ。それは部分的には、録音の時代的技術的制約という物理的条件からしてそのデリカシーを私の耳が捉えられずにいるせいもあるかもしれないが、それだけではなくやはり(録音および再生の環境変化をも踏まえたうえでの)声優たちの芝居のスタイルそれ自体が変容しているという側面もあるだろう。
  受け手としての私は、「芸術は人為の営みであり、当該作品に参加している個々のクリエイターの卓越および功績をあやまたず捉えて正しく評価するために、今まさにこの表現をもたらしている具体的な技芸とそれを発揮した具体的個人のことを常に冷静に意識していたい」と考えもするが、同時に、「私が今まさに接している表現物は、対面空間での親密なライヴパフォーマンスとは異なるものであり、制作者のことなど忘れてただ私一人の感性的体験として、まるで明晰夢に包まれるかのように作品そのものの中に没入していたい」とも思う。それは音楽でもゲームでも同じことだ。


  キャラクターの鼻筋なんかもう無くしてしまえ。おそらく90年代のうちにはすでに、アニメでも漫画でもゲームでも、可愛らしい女性キャラクターの鼻梁描写はもはやあって無きがごとくになっていたが、そこから十数年を経てもいまだに顔面の中心あたりにはインクの汚れのような落ち着かない一刷けの影が残り続けている。誇張と省略を極端にしたSDイラストやちびキャラフィギュアにおいてすら、その小さな痕跡器官めいた突起はその存在を主張し続けている。
  なかなかそうもいかないのかなあ……。


  あのインドの片手刺突武器の名前は「ジャマダハル(Jamadhar)」だったんだね……。「タージマハル」とかの連想で、ずっと「ダマ」だと思い込んでいた。1)よく知らない言語圏の言葉で、2)会話などで耳にする機会が無く、3)文中に出てきた時も丁寧に読まないでいると、こういう読み間違いを犯しやすい。日本語だと、中学だか高校だかの頃までは「めまぐるしい」を「めぐるましい」だと曖昧に思い込んでいた。目がグルグルとは、我ながら可愛らしい読み違え。漢字を当てて「目紛るしい」(または「目間苦しい」)なのだと認識すれば、間違わなくなる。
  もしかしたら「カンダハール」(アフガニスタンの州)と似たような命名規則なのかな(あるいは「関」「ゾーリンゲン」みたいに地名に由来する武器名なのかも)と思ったりもしたが、アルファベット綴りを見るに、べつにそういうことでは無さそうだ。

  ジャマダハルのような特殊な武器の名前を音として聞く機会としては、世間的にはニュースや映画(洋画)が最も可能性が高いだろう。ゲームやアニメで、この言葉が発音された例はあるだろうか。『coμ』はククリナイフだし、『SEVEN-BRIDGE』にも出てきていなかったと思うし、『D+VINE[LUV]』には……ん? web検索したら「ジャダマハル」と書かれているサイトがいくつも出てきた。攻略サイトが誤記をしたという可能性もあるが、もしかしたら私はこの作品で間違って憶えてしまったのかもしれない……なんてこったい。



  07/12(Wed)
  いろいろと厄介な仕事が詰まっているので、思い切って今月いっぱいはこのブログ活動を休むことにしよう。旧ブログやtwでは状況によって月単位での休眠をしていたのだが、このブログではこれまでまとまった休みを全然取っていなかった。中途半端にダラダラ雑文を書いたりせずに、すっぱり停止しよう。来月になれば多少余裕もできるはずだし。もちろん、ゲームを初めとした趣味活動をしないということではなく、アウトプットには余力を向けないというだけだ。
  終末状況を扱った記事の直後に手前自身のブログが終末状況かよ、とか言わない。

  忙しくても、今月分の新作予約はしておかねば……えーと、終末今週末には。

  模型制作もアウトプットといえばアウトプットだし、ゲーム(特に参加的性格の強いSLG)もアウトプットをもたらしているのだけど、どちらも人に見せるためのものではないからね。


  せっかくなんだから英語のThank youじゃなくてロシア語のСпасибо(スパシーバ)にしたら良かったんじゃないかとも思ったけど、それだと歌詞としては語呂が良くないのかも。

  大「ニパとも歌ってるんだけど、私、いやー、あのねえ、ニパとは会話してるよ、ゆるーい会話をしてるよ(笑) 歌詞を見ると分かると思う。ゆっるーい会話をしているんだよね」。「ね、ゆるすぎるでしょ?(笑) スオムス人ってこうなんだなっていうのをね、すごく感じるキャラソンになってますんで、みなさん絶対買うべき! 絶対聴くべき!(笑)」(LNAF.OA#19、53:00-)
  ああ、なるほどたしかに、これが……。

  しかも、これ、声優さんの組み合わせからして、あおい教習所につづくエイラ教習所なのか。


  ヒマワリとヒロインの取り合わせは良く効く。ここ数年だと、『夏の色のノスタルジア』とか、タイトルそのままの『ひまわり!!』とか。遡れば『もしも明日が晴れならば』も印象深い。『夏めろ』もマンション前の背景にきれいに描かれていたし、『あまなつ』にもあった筈。いずれも、小道具としてのヒマワリを、一筋縄ではいかない使い方をしている。


  作品をプレイしてはいないが一応おおまかな性格設定等は聞き知っているという程度でべつにちっともなんとも思っていなかったのだけど、たまたまある機会に、ほとんど存じ上げないイラストレーターさんがそのキャラクターの描いた二次創作イラストをちょっと目にしたら、どうやら数分後にはもう完全に私の心はオチていた。巡り合わせってすごいね……。


  森山絵凪氏の今回の連載のことはまだ書いていなかったっけ。フェティッシュな趣向は前作と通底しているのだけど、絵の魅力は相変わらず素晴らしいし、人間関係の機微を描き出すストーリーテリングも味わいを増している。単行本派ではあるが、読み続けたい。


  [ jojo-animation.com/sc/contents/bd_dvd/2nd2_bd/04.html ]
  この38~39話は、事実上の福圓氏独演会になっていると思われる。

  後日追記:BDを買って視聴してみたら……予想をはるかに超える凄まじい芝居に驚嘆した。やたらアクの強い台詞回しをする非人間キャラ(犬のキャラクター)でありながら、そのふてぶてしくも強靱な精神力を放射するかのような芯のある語り口には深い説得力があるし、攻撃を受けた際の犬キャラとしての(!)悲鳴演技もおそろしく真に迫っていて、まるで心に突き刺さってくるかのような鋭さがある。
  演じているのは見栄えのよろしくない小型犬キャラであり、しかも相手は一切喋らない鳥類キャラと一対一で戦う(つまり事実上一人芝居で場を保たせなければいけない)という特殊な状況であり、さらに映像演出は原作漫画の個性に従ったためにかなりテンポが悪くなっているにもかかわらず、笑いによって緩和されることの無い丸1回半分のシリアスなバトルシーンを、これほど視聴者を引き込むドラマに仕上げたのは、まさに福圓氏の入神の演技の成せる業だった。
  氏の卓越は最大限評価しているつもりだったが、まだまだ過小評価だったようだ。やはりこの方の芝居は信頼できる。そして、これほどの芝居は、そう何度も聴けるものではない。媒体上、複製芸術ではあっても、これはカジュアルに繰り返し視聴してよいものではないし、カジュアルに視聴できるような代物ではない。



  07/07(Fri)
  「7日はラッキー、素敵な出会いが待っている」……というような出来事は今日のオフライン生活には起こらなかったけど、良い絵や嬉しい情報などにいろいろ出会えたのでラッキー、というかハッピーではある。
  というか、今月(7月)にこれを言うと、まさに素敵な天上のランデヴー(出会い)になっちゃう。


  Wonder Foolって、そうか、『魔女パレ』のブランドか。
  キャラも絵もキャストも期待していいんじゃないかな。


  オタマトーンに触ってきた。なるほど、ああいう構造で、ああやって音が出る(変化する)のか。どこかでパーティーグッズか何かに使えないだろうか。

  「Iチョ」の歌謡曲コーナーは、「ランダムに引いた歌詞で」、「しかも他人の歌詞で」、「まともな歌詞ですらなく」、「弾き語りで」、「慣れない楽器を使って」、「それどころか楽器ですらなかったり」、「しかもデュオで」、「一発勝負で」、「音楽家でもない二人が」、「しかも録音して公開される条件で」作るという、およそ作曲(即興)としてかぎりなく過酷な条件だったのだなあ。


  2017年にもなって、どうしてニュースサイトは、取り上げている対象の公式サイトへのリンクを貼らないのだろう……。1)単なる怠慢なのか、2)自サイトから閲覧者を逃したくない(自サイト内の他記事を回らせてページビューを稼ぎたい)のか、3)スポンサーとの規約などでそうなっていたりするのか、いずれにしてもwebのメディア的特質に対応していないアナクロな仕様で、webコンテンツとしての価値をみずから低めているように思える。


  久しぶりに14時間もぐっすり寝ていた……が、寝すぎたせいで体力が戻りきっていない。


  作業のついでに「胃」初期回を聴いていたら、概要記事を加筆(改良)したくなってきた。サイトの記事を修正する(先に公開した場所を維持する方が筋は通る)か、それともこちらのブログに全て移設してしまう(最初は手間だが長期的には再編集が楽)か。そして、後者にするとして、サイトの方は残しておくか消してしまうか。あるいは、修正せずにおくか。サイトの方で公開した概要記事は、ざっと160回分(70時間分)。けっして小さな分量ではないので、真面目に聴き返すのはわりと大変な仕事になる。



  07/04(Tue)
  新記事:「ディストピアとアダルトゲーム」。機会的なツッコミから話をちょっと拡げてみたものの、引用画像のキャプションは他記事で書いたもののコピペという有様の、きわめて軽薄な記事。文字数は6000字弱。短時間ででっち上げた文章のわりに、結構な規模になってしまった。

  そうだ、これを挙げるべきだった! ということで加筆。――次の週末に人類は滅亡だ。副題英語でも「W/end」と書いてworld's endとweekendを掛けてある(あるいは「二重(ダブル)のend」という3つ目の含意もあるのかもれない)あたり、エスプリが利いている。

  今回の記事は、出演タイトルへの言及数でいえば順にゃん祭か青山ゆかり祭の可能性があったのだが、微妙に手数が足りなくて結局挙行できなかった。

  ニックネームとは基本的に知り合い(友人)同士でのみ使うものだと考えているので、声優さんをニックネームで呼ぶ(書く)のは気が引けるが、しかし何故か「順にゃん」と「まひるちん」だけは、わりと気兼ねなく書いてしまえる。何故だろう……。STPの坂田氏のことも、ご本人ではなく「メイドのゆきてぃ」という役だと認識しているからか、あまり躊躇せずに「ゆきてぃ」と書くことができる。長すぎる名前も、「ルネ山さん」のように略してしまうことはできる。かの「車の人」に至っては、もはやニックネームなのか何なのかも分からない。
  ただし、じかにお会いしてお話ししたりSNS上でコメントを送ったりファンレターを送ったりする際に、「あのラジオをちゃんと拝聴していますよ」という意味のコードとして、そのラジオ内で使われている愛称を織り交ぜるというようなことはあり得るかもしれない。そんな機会が今後訪れるかどうか分からないし、機会があったとして実行するかどうかも分からないが。


  【 ソフトハウスキャラ新作情報 】
  えっ、ソフトハウスキャラの新作が、いきなり来月末に発売って、えっ、えっと、心の準備が。
  作品コンセプトと状況設定は、いかにも(特に00年代の)SHCらしい感じ。

  おおお……なんと、主演が萌花ちょこ氏だ!!!!!!!!!!!!
  ありがとうございます、ありがとうございます、ありがとうございます!

  佐々木氏のキャラデザも、たっぷり堂々と広がったロングスカートが美しい。
  金髪碧眼太眉長リボン青マントが、なんだか『アウトベジタブルズ』の三笠さんを思い出させるけれど、まあ可愛いから良しとしよう。

  ゲームシステムは、『グリンスヴァール』の後継になる感じだろうか。『雪鬼屋』は旅館集客に特化しすぎていたのと、季節的変動が大きすぎたのとで、今一つ乗り切れないシステムだったが。

  後は、サブキャラのキャスティングに期待していこう。

  萌花ちょこ氏のSHC出演作を思い出しながら『悪魔娘』を起動したりしていたら、嬉しすぎて、幸せすぎて、なんだか視界がじわっと滲んできたよ……。


  現時点で萌花ちょこ氏の出演作は、コンシューマ版を除外すると約60本。今からでも出演作リストを作ることは出来そうだなと思いついてしまった。各タイトルの基本情報と、プレイしたものについては内容上の感想(主に萌花ちょこキャラについて)などを、書きまとめていってアーカイヴにするのは、可能といえば可能かな……。演じるキャラのタイプもヴァリエーション豊富なお方だし、キャラクター語り(演技語り)もいろとりどりで楽しいものになるだろう。
  しかし、出演作を半分もプレイしていないし、それに佐藤氏名義とかのことも含めると膨大なものになる。うーん、どなたかが手掛けてくれないものかと思えども、このご時世に個別声優の情報サイトを個人で作るひとは、もはやほとんどいないだろう。

  この方のほかに、私が情報系の記事を作る意欲を持てそうな声優さんといったら、卯衣氏や波奈束氏、美月氏、秋野氏あたりだろうか。現在も活発に出演作を増やしており、それでいて私の手に負えるくらいの出演ペースで、芝居が特別に素晴らしくて、しかも幅が広くて(「今作もいつもどおり最高の○○さんでした」だけでは味気ないからね)、それでいて私の言語能力でもなんとか説明できそうな声優さんというと、このあたりだろうか。柚原氏や藤咲氏、桃山氏は、その魅力のありようを言語化できる自信が無い。
  私が実現できるかどうかはともかく、声優ファンの視点でのプレイガイドというのはアリだと思う。プレイ時間や作品入手可能性、音質、担当キャラの登場頻度や作中での扱いなどをどんどん踏み込んでコメントしていって、その声優さんのファンにさらなるプレイを促せるような、そんなブログを作れたら素晴らしいと思う。これまでの個別声優の出演作まとめは、たいていは出演作を収集し基本情報を整理してアーカイヴ化するだけで――いや、それはそれで敬服すべきたいへんな大仕事なのだけど――、あるとしてもせいぜい一行コメントくらいのストイックな姿勢の方ばかりだった。もっと主観的な感興吐露に深く深く漬かった声優ファンブログ(声優ファン系ゲーマーブログ)があってもいいと思う。たとえば「○○になるシーンがあるんだけど、そこでヒロインが『××』って言って、その台詞のニュアンスが△△で◎◎で、もうすごいんですよー!」みたいな感じの情熱的な一人語りを読んでみたい。



  07/02(Sun)
  今月は多忙になりそうなので、とりあえず新作よりも未読/未プレイ/未聴/未制作の消化に努めよう。それならば規模やタイミングを柔軟にコントロールできそうだし。

  今年に入ってからのブログ個別記事は、機会的な文章や単発の各論ネタばかりで、幅広い実証的展望や概念的に整理された理論的探究などが全然提示できていない。関心の持ち方としては、これまではアダルトゲーム分野の動的/生成的/参加的側面としての演出に注目していたのが、最近では静止画ベースの美術的側面についてもなんらかの技術的分析と歴史的整理をしていきたいという思いがあり、先頃の「目元」記事「遠近法」記事もまさにそのレベルでのトピックなのだが、こうした話を大きく拡げていくのは非常に難しい。演出の問題であれば個別の作品の特定のシーンの特有の技術に即した説明をすればいいが、それに対して美術とは様式的認識の事柄であり、一つの時代全体を広汎に捉えなければ説得的な展望を示すことが難しいからだ。例えば、ある一つの作品の制服デザインや、ある一つの一枚絵の塗り方は、それ単体で取り出しても、理論的に意味のある説明をするのが難しい。少なくとも、「CGワーク」記事の終わりの方で試みたように、作品全体の特徴的なコンセプトとその特定の演出様式と結びつける形でなければ、分析的な成果を得るところまではなかなか行けない。あるいは、初心に戻って、個別クリエイター(とりわけ原画家)に注目してその変遷と深化を丁寧に跡付けるという各論記事を積み重ねるのでもいいかもしれない。すでに幾人かのイラストレーターについてほんのいくつかの記事を書いているが、これも踏み込んだ議論を展開するのはCG素人には難しい。
  個々の声優についても、雑記欄で何度も言及している声優さんがいるので、ログを浚って単独記事にまとめていってもよいかもしれない。例えば桃山氏や萌花ちょこ氏については、ほぼ毎月、あるいは少なくとも2ヶ月に一回ずつくらいのペースで言及していた筈だ。
  インターフェイスデザインやゲームエンジン機能の状況についても、10年代後半水準にアップデートした議論をして、記録として残しておきたい。やるべきことは無数にあるが、どれも大変だ。

  00年代の私のオタクとしての仕事は、一連のSHC攻略記事と演出技術論をもって代表させればよいだろうし、それと同様に、10年代――残り2年半となったが――のオタクとしての私の公表業績は、「CGワーク」記事とネウロイ赤城を仕上げたことでひとまず満足してしまってもいいかもしれないとも思う。あまりにも貧しい業績ではあるが。90年代については、うん、まあ、それはそれとしてそちらはそれなりにそんなことをしたりしなかったりしていたけれど。


  小林泰三氏の新著と『ノラとと』ノヴェライズ版を同時刊行するとは、やるな、一迅社。


  (→8月6月