2017/06/30

2017年6月の雑記

  2017年6月の雑記。(→7月/5月

  06/24(Sat)
  ああ、ボクっ娘はいい……心が洗われるようだ……。


  【 一度だけ、もしかしたら墓標として 】
  オタク趣味に関わらない政治的問題についてはここでは言及しないが、今回一度だけ書いておこう。今年に入ってから、政治問題に関するweb上の言論は本当にひどくなった。これまでは慎重さと公正さを保っていた人々も、党派性ベースの思考にどんどん取り込まれていった。十分に優れた知性と公平性を持っている人々でも、政治に接近しつつその魔力に抵抗するのは至難なのだということを、あらためて痛感させられる。
  事あるごとにあまりにもカジュアルに敵対勢力の愚行をくさすようになっているし、そうした対象に対する下品な罵倒の言葉も躊躇わずに公言するようになった。「敵対党派のバカを見下し合う構図は良くない」という主張に接しても、もはや自戒には向かわず、「そうだね、そういう『敵のバカ叩き』ばかりやっているよね、あのバカたちは」とコメントしてしまう……まさに自分の言動がその一部であるという認識もできなくなっている。そして、個々の行為の当否を個別に省察することもなく、「相手もやっていることだからこちらもやり返せ」、「相手の同種の行動よりはマシ(ということを、どちら側も主張している)」といったことを平然と主張するようになっている。そして、政治屋の露骨な動員アジテーション発言をリツイートする。味方側と目される人物については、事実に反する発言だと判明した場合でも迂遠にお茶を濁したコメントで済ませる(その一方、そうでない者の同種発言については、有害なデマアカウントとして即座に侮蔑的コメントを出すのに)。当時私が交流したり投稿を拝見したりしていた中でもトップクラスに知的な人たちですら、そして左右どちらも――というか、与党寄りと野党寄りのどちらも――この有様だ。もちろん私自身も、実質的な問題について口を開けばどうなるか分からないが。
  当人(たち)に対して私がそうしたことを指摘しても、おそらくは、残念ながら、もう届かないだろう。彼等は自分自身はまっとうでいるつもりであり、上記のような振舞いを正当化するような理屈(ただしきわめて皮相的な、為にする便法的エクスキューズ)をも具備している。政治的立場や原理的価値前提を共有する者同士の間ですら相互の指摘が成立しないということは、要するに公正な議論の可能性が失われているということであり、そして、内部批判や内部的改良の余地が失われているということだ。そのような状況が何を帰結するかは、もはや言うまでもない。悲しく、そして悲惨な状況だ(――ただし、当然ながら、同じ社会にともに生きている他者のことを話の通じない相手と見做してしまうこの姿勢それ自体がすでにして、相手を公平な意見交換の対等な人格として扱わないという、独断的独善的な党派的主観性への引きこもりの道を歩いてしまうことになるのだが……事程左様に、フェアな言論姿勢を保つのは難しい)。
  (政治における)公正な議論というのは、党派的な優勝劣敗を目指すものではなく、自他の価値前提を開示しつつ全体としてより良い結果を得るために合意と調整を目指して行われるものであり、その公正性を維持するためには一連の手続的条件が守られねばならない。党派的対立を絶対の線引きとしたり、相手を人格的に攻撃したり、 議論の実質に踏み込まずに揚げ足取りをしたり、相手の提起した問に答えずに「じゃあお前の○○はどうなんだ」と別の問を投げかけたりすることは、すべてそうした公平な議論のための前提条件を致命的に破壊するものだ。……だが、そのような理知的で公平な議論がこの日本のweb言論において息を吹き返すことは(あるいは、まず生まれ出ることは)はたして可能なのだろうか。良き言論状況の生死に関しては、いささか悲観的にならざるを得ない。

  私自身も、たとえば趣味分野の事柄では、不当な仕方で特定のジャンルをバカにした人物のことを敵視したり(つまり「許さない」気持ちでいる)、あるいは明白に事実に反するコメントによって特定の作品を侮辱した発言をはっきりと非難したり、オタク創作物の明らかな無断改竄(コラージュ)をリツイートしたりするようになってしまった人々に対しては人格評価を引き下げたりしている。
  ただし一応は、「ある個人があらゆる問題について全て誤るということはほぼあり得ない」という前提から、できるかぎり問題毎に(あるいは個別発言毎に)内容を検討したうえで是々非々の対応をとるようには努めている。また、そもそもどこまでが公正さの範疇であり、どこからは許容され得ない偏頗の範疇であるかの判断は非常に難しいし、そもそも万人を説得できるような客観的な線引きは困難だろう。




  06/22(Thu) 
  「ノラとと」ラジオは、あの方とかあの方とかがゲスト出演される可能性があるので、聴き続けておきたい。
  しかし、あのいんでかまい氏が……ルーシア姉様がオリーブオイルをケチケチしない濃厚なインディカ米リゾットを嬉々として作られる様子を想像してしまいそうになる。(意味不明)


  マエストロが言い淀んだ時のように、『Splatoon』を呼ぶときに「スプラッ」で一度切ってしまうと、「…ッター」につながってしまいそうでドキドキする。もはやちっとも平和的ではない、血飛沫溢れ返るゲームのイメージになってしまう。例えば『Mortal Combat』とか『影牢』とか『MinDeaDBlooD』とかみたいな……。


  小樽で、隕石で、神社で、刀にって……『星空のメモリア』かよ。というか、ここまで符合していると、むしろ『星メモ』が流星刀にインスパイアされていたのかも。
  そういえば、こっちは「Wish upon a shooting star」で、あっちは「Wish upon the Pleiades」か。


(2017年6月23日、自宅にて撮影)
というわけで、ついに全て揃った(?)六連星。ただし、ひかるだけは元ネタ車両の模型が無いので、ピアノで代用した。
いつかやってみたいと思っていた、エスクード(剣)とエスクード(車)とエスクード(ブランド)。残念ながらエスクード(貨幣)は持ち合わせていなかった。
figma獅堂光。こういうヘアスタイルには弱い。一見ショートカットにも見えるし、細長い三つ編みがしなやかに跳ね回るのも楽しいし、それでいてどことなく緊張感や可憐さをも窺わせる。蠍の尾とか言わない。

  ハチロク(白スク版)も店頭に並んでいたけど、今回のも(性的な意味で)激しい奴だよね……。おそるおそる手に取ってみはしたが、さすがにレジに持っていく勇気は無かった。沢井夏葉フィギュアの時も、水着を脱がして全裸にすることができて、それで局部のディテールもしっかり作られているというアレっぷりで、いやまあ確かにアダルトゲームキャラのフィギュアだという観点でいえばオーソドックスな攻め方なのかもしれないが……。


  それにしても、どうして私はこんなにネタっぽい写真ばかり撮りたがるのだろう。


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  『第五〇一統合戦闘航空団全記録』第三集のインタヴューでも同じようなことを語っておられた。曰く、「仲井さんは、オーディションのテープは聴きましたが、どういう人かは知らなかったんです。だから、プロファイリングしておそらくこういう人だろうと想定したんですね。それでキャラクターを作り上げたんですが、アフレコでは欲しい声がきちんと来て、自分が想定した芝居がきちんと来たんですよ。正直、そこまでできる人だとは思っていなかったので、嬉しい誤算ですね」。
  「嬉しい誤算」という同じフレーズを繰り返しておられるところから見ても、台本執筆時点で期待していたとおりの(あるいは期待した以上の)芝居で応えられたという嬉しさが、確かな実感としてあったのだろう。
  なお、「そこまでできる人だとは思っていなかった」というのは、失礼な話ではなく、やむを得ないことだろう。仲井(大橋)氏は、この時点ではキャリアも浅く、『SW』が初レギュラーだったというくらいなので。そしてこれ以降の佐伯氏からの信頼の深さは、『SW2』『めだかボックス』『プレアデス』で起用されたり脚本担当回になったりしていることからも窺われる。


  どちらもどうでもいい話だけど、声優が「即座にあなたの声だと分かりました」と言われても困るんじゃないかな。声を識別できるくらい自分のことを覚えてくれている(注目してくれている)熱心なファンがいるという意味では嬉しいかもしれないが、声を識別してもらうことそれ自体は自分の芝居の価値とはなんら関係のないことだから。また、「クレジットを見るまであなただとは気付きませんでした」というのも、同様の理由から、どうでもいいことだろう。声優は、あくまで目の前にある「その」役をより良く演じることに専心しているのであって、過去に演じた他のキャラと似ているか違っているかどうかはまったくどうでもいいことだろう。
  演じている声優自身の像を探し求めるのではなく、むしろそんなことは忘れ去って、声優が作り出した表現世界に没入してほしいというのが、視聴者に対する役者の希望であり、そして芝居の目的そのものでもあるだろう。歩氏や杏氏が言うように、「キャラを見てほしい」「作品を見て(聴いて)ほしい」というのは、ほとんどのプロ声優が共有している価値観だろう。キャラクター(演じている役)のイメージが綻びて、視聴者に役者自身の生の存在を意識させてしまうのは、あるいは役者の地の言葉になってしまうというのは、まさに芝居が失敗した瞬間に他ならないからだ。

  それにしても、声優を語る人たちはいったいどうして「演じ分け」などということばかり気にしているのだろう。それは声優の表現力の一端を示唆する傍証的事実ではあるけれど、芝居の価値とは何の関係も無い事柄なのだが。芝居の本領というのは、似ている似ていないといった物真似ごっこレベルの問題ではないのに。声優に関する言論は、素人(私自身も含めて)の素朴な言葉ばかりが泡沫のように浮いては消えていくばかりで、蓄積や進展がちっとも為されていない分野であるように思われる。



  06/21(Wed)
  「中村あむ」さんのお名前になにやら既視感があるような気がしていたが……そうか、『Maple Colors』のヒロイン「卯月あむ」の名前が記憶に残っていたのだった。ただしこのキャラを演じていたのは宇佐美氏で、その一方、「秋穂もみじ」役を木村氏が演じておられた。
  ちなみに、「秋野もみじ」という声優さんもいらっしゃって、そしてその方は、えーと、いろいろとお名前がややこしい。

  さらに余談ながら、『SW』1期6話の「あなたもでしょう? お誕生日おめでとう、宮藤さん」のカットのサーニャは、なんだかすごくTOMA絵っぽいと常々思っている。低年齢気味なキャラデザもそうだが、とろりとした垂れ目の表情といい、首筋の目立つほっそりしたプロポーションなのにどことなく色気と迫力を感じさせるところといい、外連味のある仰角構図からこちらを見下ろしてくる姿勢といい、コントラストの鮮やかな色彩感覚といい、光源を強く意識した画面設計といい……見れば見るほどTOMA氏の画風っぽい香りがする。単なる偶然なのだろうけど、ただし、TOMA氏がアダルトゲーム原画家の中ではかなり珍しいことにアニメーションの美意識を活用しているというのも事実だ。それは上記『Maple Colors』の表現スタイルにもはっきり見て取れる(――個別の絵だけでなく、演出スタイル全般も含めて)。


  学部時代は1限講義もべつに問題なく出席していたが、べつに私が勤勉だということではなく、ただ単に眠りが浅い寝覚めが良い体質だったからだろう。あるいは、自炊していなかったので、学食で朝を食べてそのついでに1限の講義に出ていたということかもしれない。
  他大学で仕事をしたりするようになって、1限が8:45開始というのはわりと早い時間設定だということに後から気付いた。特に遠距離通学者にはつらかろう。近隣の他大学では9:00開始というところが多いようだ。



  06/19(Mon)
  実は『ナディア』を観たことは無いのだけど、今この2017年にあって『ナディア』を視聴する意味はあるだろうか。どのような意義があるだろうか。一般論としてもこの作品の歴史的意義はわりと大きいようだし、私個人の問題として言えば「観てみなければ分からない」としか言えないので、実際に観てみればいいのだけど、どのくらいの優先順位にしたらいいかなあ。

  というわけで妄想を拡げてしまった新記事:「オタク文化遺産(の妄想)」。

  話を戻すと、『ナディア』はどのような感じに位置づけられるんだろう? 私の聞き知る世評をおまかにまとめると、90年代初頭という、現在の目からみればアニメがそれほど豊かではなかった時代にあって、完成度には凸凹があったものの、清新かつ濃厚なオタク的表現世界を提示し、しかもNHKで3クール放映という好条件もあってそのあたりの世代での知名度は非常に高い……といったようなものらしい。さて、このイメージが、実際に視聴したらどのように変わるだろうか。BOXセットはすでに買ってあるので、問題はいつ観るか――あるいはもしかしたら「観ないことにする」か――に絞られているのだが。

  古典アニメだと、『パタリロ』とかにも手を出してみたいけど、またいろいろと危険な扉が開いてしまいそうだしなあ……。


  【 反省 】
  このブログタイトルは英語としては非常にこなれないので、自分でつけたタイトルなのにいつもモヤモヤしている。"garden"がいきなり冠詞無しでポンと出てくるし、"at dawn"は独立性の高い副詞句なので"garden"に続くひとまとまりのフレーズとしては認識しにくい。日本語に置き換えるならば、子供が唐突に「庭ー夜明けにー!」と言っているようなもので、非常に据わりが悪い。まともな英文の中から見当違いな切り方で抜き出してきたような感じで、ネイティヴであればこんな3単語をひとまとまりにすることは絶対にしないだろう。
  英語としては、大文字を使いつつ、またatをofに代えて、"Garden of Dawn"の方がまだしもベターだろう。それでもまだ、固有名詞(ブログタイトル)の名乗りとしてはぼんやりし過ぎているのだが。あるいはせめて定冠詞を付けるか……。今更ながら、やっぱりタイトルを変えようかな……。元々は、前ブログから「庭」関連の言葉を引っ張ってきたかったのと、なにか好きなゲームタイトルを入れたかった(ここでは『あかときっ!』)のがあって、そして全体をできるだけ短くまとめようとしたらこうなった、ということなのだけど、トップダウンの要望をそのまま容れると現場では歪な形になってしまうという良い例(悪い例)になってしまった。
  ちなみに、前のブログのタイトルは、ただ単に2つの単語をじかに並べただけなので、そういうものとして率直に受け止めることができたはずだ。二つの単語の単なる機械的な組み合わせ(並列)ということであれば、むしろいかにもブログタイトルらしいやり方になる。



  06/16(Fri)
  この一週間、風邪の治療のためという大義名分を手にして、消化が良くて栄養のあるものなどをガパガパ食べまくっていたら、さすがに胴回りに影響が出てきた。でも後悔はしていない。体調は十分回復したが、まだしばらくは喉に症状が残りそう。鼻づまりするということは体内から風邪がまだ完全には駆逐されていないということだし。

  というわけで、週末2日間は自宅に籠もって思いっきりオタ遊びに興じる。


  長距離移動の際にはSF小説が適しているかも。記述が総じてクールで明晰であり、物語進行も科学的思考がベースになっているので、他の文芸作品に比べて文章のデリケートなニュアンスに気を使わなくて済むことが多い(――あくまで全体的傾向と程度問題の話)。また、LNのように会話過剰であったりファンタジー的シチュエーションを想像したりする必要もあまり無い。新書のように新たな情報を身につける(内容を咀嚼してみずからの知識として記憶する)ということもしなくてよい。SF的思考を最低限身につけていればわりと気軽に手に取れるし、なおかつ内容に集中しやすく、知的刺激も大きい。そういう意味で、電車に30分以上座り続ける状況では、ちょうど手頃だと思う。未読の古典だと、アイデアそれ自体はすでに既知のものであることが多いので、移動中のカジュアルな読書にはちょうど良い。また、翻訳の出来が拙い場合もあるので、国内作品からピックアップする方が無難だろう(――海外SFならばあるいはいっそ原書でもいい)。筒井作品などは、「こんな技術的展望やそんな社会状況を昭和40年代にすでにイメージしていたのか」と驚かされたりする。


  今月中の旧作再プレイ禁止の自己規律は、なんとか守れている。まとまった作業のできない短い待ち時間などにフリーセルを起動することはあるが、それ以外は何かしらのより生産的な作業に向かうようにしている。旧作再プレイもそれはそれで良いものだけど、そちらにあまり時間を費やしてしまうのもよろしくないので。


  『サクラノモリ2』も体験版が出たのか。意欲作として評価したくはあるが、この脚本家はテキストがダルくて、残念ながら私の好みからは遠いので、躊躇してしまう。

  [ baseson.nexton-net.jp/baseson-light/kimihane-couples/ ]
  良かった……嬉しい……『きみはね』がようやくパッケージ化されるのか。

  [ sukerasparo.com/ ]
  かと思えばこちらの全年齢PC百合ゲームでは、長妻氏が主演されるとのこと。
  しかも脚本はJ-MENT氏。


  「みぎわ(汀)」という言葉が好き。要は「水際(みずきわ=みぎわ)」なんだけど、音の響きがなんだか好き。ミステリアスにくぐもった「ま」行と明るい「イ」音の結びつき、そして「イ」音を引継ぎつつ濁音交じりで軽妙に頂点を作る「ぎ」、そして柔らかく開かれた感じに最後を押さえる「わ」。歌手が音の響きの面白さを的確に拾い上げつつリズミカルに「汀に佇み~」と歌ったり、おおらかにして清らかな抒情とともに「みぎわへの輝きに~」と歌っているのを聴くと、たいへん気持ち良い。



  06/15(Thu)

  【 声優ソング雑感 】
  本業声優さんの歌唱CDをいくらか聴いてみたのだけど、不可解な仕方で声それ自体の存在感を消去して音響の中に埋もれさせてしまっているケースがわりと多い。声の芯が失われて、妙に生気のない声色になってしまっているし、ヴォーカルとインストゥルメンタルが音響としてきれいに分離されていなくて、両パートの対比と調和を作り上げることもできなくなっているし、それでいて演奏部分(楽器部分)とうまくフィットしているかというとけっしてそうでもなくて、音響全体としても定位感が希薄でスタジオの中空に音が浮かんでいるような感じ。また、イージーリスニング向きというにも中途半端で、いったいどう聴いたらいいか戸惑うことが多い。なんというか、素人の歌を伴奏の圧で無理矢理誤魔化しているような感じで、声優さんを歌手として信用していないのかと勘繰ってしまいたくなるほどだ。
  もちろん、歌があまりお上手ではなさそうな声優さんもいるが、しっかりした歌唱技術の下地があると思われる声優さんや、本当に歌が上手い声優さんでも、ちっとも面白く聴けないことがある。これはおそらくは、歌唱それ自体の巧拙よりもむしろ、編集(ミキシング)サイドの悪習ではないかと思える。アニメやゲームの音声芝居では、ほんの一声でその場の雰囲気を鮮やかに作り上げたり、ほんの一瞬のニュアンスでキャラクターの機微を乗せたりする超絶技巧の一流声優でも、声優ソングになると途端に平板で退屈に聞こえてしまうことがある。

  もちろん、全てがそうなっているわけではない。インストゥルメンタルに下支えされつつ、いやそれどころかかなり挑戦的な構成の伴奏をも的確に乗りこなしつつ、けっしてそこに埋もれることなくそこから鋭く屹立して、堂々たるヴォーカルのいわば「主演」としての輝かしい存在感を発揮しつつ、生きのよいリズムと絶妙のフレージングを保ちつつ、しかも声優ならではの精妙かつ明晰な言葉のコントロールの下でそれらの豊かな表情づけと意味解釈のデリカシーを歌詞の進みゆきに込めつつ、楽曲それぞれに色とりどりの雰囲気をおおらかに放射しつつ、鮮明なライヴ感をすらリスナーの前に展開してみせるような、そして目のくらむような魅惑に満ちたその曲が終わった後の複雑かつ繊細な余韻をその都度心に残していくような、そういう声優=歌手の作品に出会えたことは、まちがいなく私の人生の幸福の一つだ。

  ともあれ、声優ソングの開拓はひとまず切り上げようかなあ……。


  今度一緒に仕事をすることになった外国人教員がどうやらアニメオタクのようなので(持ち物のディテールから気配を察した)、何かおすすめできるように心の準備をしておく。日本語はひととおりは出来るようなので言語面の配慮をする必要は無さそうだし、一切の手加減を行わず、まずは最高のもの(というか、私が絶対の自信をもって全力で薦められるタイトル)から――『ウテナ』全話BOXあたりを出せるようにしておこう。劇場アニメだと、どれがいいかなあ。
  いや、もちろん、その後20年間で多数の優れた作品が作られてきているし、これよりも愛着のある作品もあるしこれよりも私の価値観に深く結びついている作品もあるしこれよりも○○氏や××氏の出演シーンの多い作品もあるし、またこの作品はこの作品で90年代なりの限界がありはするが、それでも作品としてちゃんと「魔法が掛けられて」いる貴重な作品だからだ。
  ちなみに、アメリカの若いアニオタの間では、『友人帳』がやたら人気のようだ(――留学生たちの自己申告による)。その感性はいまいちよく分からないが。

  アニメに限らず、たいていのことは「最初に最強のカードを切って、その勢いで行けるところまで行く」という行動原理で生きている。べつに攻撃的に振舞うということではない。自分にとって最高のものの評価について妥協はしたくないのと、他人を見くびって甘っちょろいものを薦めることはしたくないのと、中途半端な出来のものを薦めて見くびられたくないというのと、そして、究極的な趣味が合うならばその方が話が早いし、合わないならば合わないで早めに違いを理解できる方が無駄が無いという考えから。

  90年代末からのアダルトPCゲームブームも、まさに最高のものに対する熱狂に後押しされて、そして最高のものと信じられた作品の熱心な布教によって、もたらされたのではなかったか。



  06/13(Tue)

  【 ゲームと美学 】
  ゲームについての、あるいはアダルトゲーム、あるいはアドヴェンチャーゲームについての美学はいまだほとんど開拓されていないように思われる。さしあたりAVG形式のアダルトゲームを一つのモデルとして考えた場合、特徴的なのは素材が素材のまま剥き出しになっているというありようだろう。人物立ち絵、背景画像、テキスト、音声、BGM、レイアウト等々が、「一つの完成されて完結した芸術作品」のようなものとして完全にインテグレートされてはいないのだ。モンタージュ的な不断の構成と再構成と再編集によって変容し続けていく過程そのものなのだ。
  それらの各要素が生(き)のままで出力されては相互に衝突し合いつつ全体としての作品の運行を作り出していくというダイナミズムは、コンピュータメディアの特徴でもあり、また往時は画像輪郭のジャギー(90年代)やガタガタの段階的画像出力(80年代?)といった環境要因によって、さらにプレイヤーの参加というインタラクティヴィティによって、いよいよ強化されている特徴でもある。プレイヤーが参加しなければゲームはそもそも始まりすらしないし、しかも(セーブ/ロードを極端に制約する極々一部の例外的タイトルを除いては)ゲーム作品の現れとその推移もプレイヤーの意志によっていかようにでも操縦されていく。「素材(質料)的次元の無視しがたい露呈」、「参加要素の決定的重大性」、「非決定的な動的生成」、これらは芸術作品としてのゲーム作品の大きな特徴だと言えるだろう。明々白々な複製芸術でありながら、その都度固有の参加的体験を提供しており、それでいて、その場限りの一回性のライヴパフォーマンスとも異なって、再現可能性と自由度を併せ持っている。
  こうした特徴を持つ現代的なアート(表現物)としてのゲーム作品を、既存芸術ジャンルと比較しつつ美学においてどのように位置づけるかは、難しいが刺激的な仕事だろう。


  たまたまキャラクターと同じ名前だというだけで何の関係も無い商品まで買い求めるのは、さすがにキャラクター愛の対象を見失ってしまっているのではないかと思わないではないが、しかし、作品やキャラクターをきっかけにして当人の世界が豊かになるのならばそれはそれで構わないとも思う。芸術作品の解釈を問う際にはそうしたことは問題にはならないとしても、人の世に存在するものとしての芸術作品は究極的には人間のためであると言うしかないものであり(宗教芸術ですら、その信念体系にコミットしない第三者から見ればそう言える)、それゆえ個々人がみずからの好きなように芸術体験の外延を拡げていっても誰に文句を言われる筋合いでもない。

  まあ、私自身、こんなことまでしているし……いやいや、これはこれで作品理解にとって実質的な関連性のある事柄だし、当該作品制作の意図された対世的作用に照らしても同社関連商品のセールスが上がることは(間接的にではあるが)意味のあることだ……たぶん。


  【 価格設定の柔軟性と文化的豊かさ 】
  完成品フィギュアは、2000円以下の比較的安価なものから、数万円レベルのハイクオリティなものまで、価格の振れ幅(≒クオリティの振れ幅)が大きい。これは、そのジャンルで楽しむ人々にとっても、またそのジャンルの発展にとっても、幸せなことだと思う。
  ハイエンド商品が存在しうるということは、それだけ大きな意味がある。そのジャンルにおける最も妥協の少ない理想を具体的な形姿をもつ実在物として提示できること、あるいは少なくともそうあろうとする新たな挑戦が為されたということであり、ジャンルの表現上の新たな可能性が切り拓かれるための豊かな素地があるということでもある。そして、その実像を多くの人が目にすることができるということであり、したがってそのジャンルにおける魅力がより良いかたちで披露されているということでもある。もちろん全員がそれを入手できるわけではないとしても、その挑戦とその成果は、技術的にもまた人的(経済的)にもそのジャンルをさらに豊かにしていくだろう。
  ハイエンドモデルの一方で、エントリーモデルの裾野が大きく広がっていることも重要だ。それは当該ジャンルの多様性を確保しているし、参加人口の間口を拡げることにも寄与するし、そしてハイエンドモデルにおける技術的/芸術的な挑戦および成果が咀嚼されて普及していくもう一つのステージを形成するからだ。つまり、ミドルレンジ以下のカテゴリーも、多様性の余地のある環境の中で、もう一つの実験場になり得ているのだ。
  家電や自動車などの工業製品について一般的に言える話だが、これはオタク趣味の諸分野にも当てはまる話だ。

  スケールモデルでも、大スケールキットで精緻に練り上げたCADモデルを、小スケールモデルに転用することができるし、大スケールの王道的ラインアップ(例えば戦艦や空母)でしっかり稼ぎながら小スケールキットで小規模の実験を行ったり変わり種に手を出したりする。大スケールキットをまさにフラグシップモデルとしてメーカーの看板にしつつ、多様な小スケールキットでユーザーの裾野を拡げるというのも、ごく常識的な戦略だ。

  アダルトゲームの場合は、1)フルプライスの標準価格それ自体がすでにかなり高い(8800円)ことに加えて、2)大量のタイトルを高速健啖にこなしていくゲーマーたちの速度、3)小規模ながら集団制作であるためブランド全体として「賭けに出る」ということが(おそらく)案外難しいこと、4)新興メーカーや新顔クリエイターの多さによるクオリティ不安、5)いわゆる「(性的な)実用品」としての性格が不可避的につきまとっている、6)内発的な表現技術のみの問題ではなくPC環境やプログラミング技術といった外的要因によって大きく規定されている、といった諸要因もあって、数万円レベルのハイエンドタイトルは出しにくい。
  もっとも、若者の多いオタクジャンルとしては、8800円規模であれば高額商品だと言える(――プラモだと堂々たる1/350スケール巡洋艦クラス、あるいはMASTER GRADEの中でも「サザビー」「EX-Sガンダム」などの最高ランクアイテム)。そして実際、技術的開拓の主戦場たるに相応しい発展を遂げてきた。また、アダルトゲーム制作においては、よほどのビッグネームクリエイターを連れてくるのでもないかぎり、価格(≒コスト)は素材の量に比例する――これはCG制作ノウハウの普及浸透や音響制作会社の整備のおかげでもある――ため、商業製品としての価格はそれほど極端なものになりにくいという事情もあっただろう。素材制作量が問題であるということは、制作期間にも反映されてしまう(無収入のまま一作品に3年も4年も掛けられるメーカーなど……いや、たまにあるけど)し、一作品を60時間も100時間もプレイさせるほどの超大作にすることはあまり意味が無いからだ(いや、そういうタイトルもSLGとかにいくつか実在するけど)。
  ロープライス作品は、それ自体としては汎用エンジンと垢抜けないデフォルトインターフェイスをそのまま使っていたり、あるいはおそらくそれほど費用が掛かっていないのであろうBGMや声優を使ったりしているが、汎用エンジンの裾野を広げつつ、それらの技術的フィードバックや経済的フィードバックにも寄与してきただろうし、CGスタッフから声優に至るまでさまざまな分野の多くの才能に対して仕事の機会を提供してきただろう。

  もしも仮に、アダルトゲームが8800円標準ではなく、90年代後半にそうなりかけていた(?)ように6800円なり5800円なりの価格帯を標準としていたならば、中規模の散発的な実験作は増えたかもしれないが、総体としては、CGの洗練の度合いはかなり落ちていたことだろうし、才能ある声優たちの発掘もかなり小規模に終わってしまったかもしれないし、この分野が00年代前半頃まで謳歌したあの巨大なブームを引き起こすほどには、人々を引きつけるに至らなかったかもしれない。
  その一方で、もしも2万円や3万円クラスのタイトルが定期的に現れるような市場であったならば、アダルトゲームの(技術的/経済的/文化的な)発展はどのように違っていただろうか。ちょっと想像しにくいが、例えばF&Cやelfがその価格帯でどんなに魅力的な作品を作っただろうかと考えると、これはこれで面白い妄想になりそうだ。(結局ただの妄想)



  06/12(Mon)
  SHC総合wikiには、クレアをLv2898にしたという猛者が……。どれだけ時間が掛かったんだとか、Lv999でカンストじゃないのかとか、そこまでしてもステータスアップは僅少ではないか(HPを除く)とか、いろいろと大変そうな話だ。ただし、育成の過程で、スキルはもちろん武器も相当強化されている筈なので、レベル相応にかなりの違いが出ているだろう。


  【 店内での他人との交流 】
  店内で見知らぬ他人から話しかけられたくはないけど、あくまでふぁんたじーな妄想の話として言えば、たとえば、気になっていたタイトルを店頭で手に取って眺めていたら、そこを通りがかったレベルの高そうなオタク客さんが、パッケージアートを目の端で一瞥するなり、「む、藤咲ウサか、良いな……」と呟きつつそのまま(私には目もくれずに)歩き去っていったら、ちょっと格好良いと思うかもしれない。そしてその運命っぽい何かに感謝してそのままレジに向かってしまいそうだ。喩えるならば、twitterとかで、直接リプライを返すかたちではなく、返事を期待することもなく、しかしちゃんと的確なリアクションの投稿をし合っているみたいな感じの距離感で。
  店内で人とすれ違いざまに独り言をぼやく変な人だとか言わない。たぶんきっと格好良いよ!

  実のところ、もしもそんな人に遭遇したとしたら、その人は「パッケージを見て瞬時に作品を識別できるくらい詳しい」、「そこからキャストも即座に思い出せるくらい作品理解も深い」、「おそらくプレイ経験も豊富である」、「作品(または声優)の評価もすぐに出てくるので、審美眼も磨かれている」と推測できるわけだから、もしもそんな人がいたら、その言葉は信用できると思う。

  もちろん、(二次元系)オタクショップでは、幸か不幸か、他のお客さんに話しかけたことも話しかけられたことも一度も無い。年齢性別問わずそういうのはマジ怖い。店員さんはまた別だけど。

  クラシック系CDショップ(四条烏丸JEUGIA)では、CDボックスセットをレジに持って行ったら、四十代くらいの男性店員さんから「これは良い演奏ですねー、録音も良くて」云々といったことを語りかけられたのを憶えている。学生時代のことなので、いっぱしのクラシックオタクとして認められたかのような面映ゆさがあった。その店員さんの言葉もほんの二言、三言くらいの程良い挨拶程度の雰囲気だったし。もっとも、クラシック界隈だと、本物のプロ演奏家が来店していることもあるだろうから、その意味でも他のお客さんに話しかけるなどという軽率なことはとても出来ない。
  模型関係でも、 左京区の個人経営のお店に何度か通って、おそらく顔を識別されたであろうくらいの頃に、レジで高齢の店主さんから「このキットは○○でねえ」と多少話しかけてもらえるようになったりもした。ただし、当時の私はろくな知識も無かったし社交性もさらに低かったので、たいした受け答えもできなかった。他に客がいなくて暇にしていたのであろう店主さんには申し訳ないことをしたと思う。
  逆に、(別の店の話だが)高齢の客が店員に対して軍艦に関するなまくらな御講釈を延々垂れていたのを見たこともある。店員さんは大変だよね……。店主と常連(?)客がレジ前で延々話し込んでいて、買いたいものを買えなかった(気が引けてレジに出せなかった)こともあるが、彼等はそれはそれで楽しそうだったので、まあ仕方ないかなあと思った。

  大学図書館だと、学生(院生)が毎日通い詰めていればスタッフさんたちとはすぐに顔馴染みになっていく(そして延滞を怒られたりする)ものだし、そこからもっと仲良くなることもある。昼休みや17時以降の受付バイトは院生の間で回していたりするし。実際、知人の研究者にはそういうご縁で結婚した者もいる。もしかしたら公立の図書館とかでも似たようなことはあるのかも。いわゆる「喫茶店の看板娘と常連客」とかも、構造としては似たようなものだろう。

  もしも、ショーウィンドウのトランペットを見るスラムボーイのような目で中古アダルトゲームショップのパッケージを見つめるショタボーイがいたら、思わず買ってあg…いや、18禁だった。


  二次元であれ三次元であれ、既婚者であることをアピールしているアイドルはいるのだろうか。イベントの度にパートナーの魅力を語りまくり、満面の笑みを浮かべて惚気まくるのを、ファンはニコニコしながら聞くという感じの。カップリングに萌えるタイプの(主に女性の)オタクならば、そういうのもありかもしれない。
  ただし、真面目に考えると、パートナー関係という要素をキャラクターの性格付けに使うのはかなり下品だし、(実在個人であれフィクションのキャラクターであれ)表に出て来ずその場にもいない第三者のプライヴァシーを公然の場で話題にするというのもあまりよろしくない行動だろうから、まあ、べつにそういうのはいなくてもいいと思う。事実として既婚である(がとりたてて公表はしていない)というだけならば、実際にはけっこういらっしゃるだろうし。

  後日追記(6/17):どうやら現実のアイドルで、そんなようなことが起きたようだ。あらためて私見を述べておくと、結婚というのは1)私生活の領域の事柄であり、2)徹頭徹尾本人の意志によって決断されるべき事柄であり、3)当人の人生のありように対してもきわめて大きな意味を持つ事柄なので、他人がどういう言うべきではない。また、当人も、第三者に対して一々言わなくていい。私生活は私生活として切り分けるのが、成熟した大人の文化だと思う。周囲(ファン)もそうしたことは一切言及しなくていいし、当人も自らの結婚生活に関わらない相手に対して結婚の有無などを公表する必要は無いし、そんなことはわざわざすべきでもないし、ましてや対外的なキャラ立ての一部として利用すべきでもない。そうでなければ、人生そのものの切り売りになってしまう。



  06/10(Sat)
  LNAF.OA #17。ふくえんさん、「オトコノヒトってそうなんだねー」という発想の仕方といい、気取ったところのない素朴な笑い声といい、まるで「ちゅうがっこうのおともだち」みたいな雰囲気は相変わらずだ。今回は、これまでのタロット占いの掛け声答え合わせもあって、59分59秒の長尺ラジオになっている。


  【 SHCの雑感的通史 】
  SHC旧作群の起動ディスクのファイルを掘り出してしまった私の休日はどっちだ。

(2017年6月10日、自宅にて撮影)
こんなふうに、起動用のディスクだけをまとめて保管していた。TAIYOYUDEN、TDK、maxell……最近ではディスクメディアへのバックアップもほとんどしなくなったが、昔はたいへんお世話になっていた。webラジオのバックナンバーなども、HDD容量を圧迫してしまうため、CD-Rに保存していたものだった。

  『真昼』から『Climber』までは、ゲームを起動させるのにディスク認識が必要なので、起動用のコピーディスクを作成して普段はそれを使い、本体DVDは別途保管していた。ちなみに、高度なディスク認証ではなく、ディスク内の特定ファイル(install.exe)から起動すれば動くというものなので、それに必要な最低限のファイルだけをコピーディスクに入れておけば足りる。ディスク自体にもコピーガードは掛かっていない。正規ディスク認証のためというよりは、ただ単に起動時の様々なチェック(ヴァージョンチェックなど)を可能にするための仕様であるか、あるいはディスクからBGM再生させていた最初期のエンジン仕様を踏襲しているにすぎないか、あるいはせいぜいカジュアルな中古売りを防止する程度の趣旨と思われる。『Wizard's Climber』(2008)以降は、初回ディスクチェックのみは置かれているがそれ以降はディスク無しでゲーム起動できるという仕様になった。
  最初期の『葵屋』『うえはぁす』はディスク無しでも起動するが、BGMが鳴らない。

  『ブラウン通り』『LJ』『巣作り』は、なんとなく三部作っぽい捉え方をしてしまう。べつにシステム上の共通点があるわけではなく、せいぜい、1)青山(羽賀)ヴォイスの金髪ヒロインがいて、2)内藤テキストのコメディもこの時期は特に切れ味が良くて、3)いずれも中古高額化が顕著だった、という程度にすぎないが。どれも特別に好きなタイトルで、『ブラウン通り』はアダルトゲームとして珍しいことに、牧歌的な――いわゆる「名作劇場」風の――雰囲気があったし、『LJ』は特撮パロディ的趣向をベースとしつつインターフェイスや背景レイアウトにまでコンセプチュアルな表出意欲が満ち満ちていたし、『巣作り』は架空世界の複雑な社会関係を見事に描き出しつつゲームパートにもインタラクティヴな楽しさがあった。また、640*480解像度の最後の世代でもある。

  ただし、これは多分に私個人のSHC体験の経緯に規定されているだろう。ゲームシステム基軸で時期区分を試みるならば、『アルフレッド学園』もセットにした方がよいと思う。ごくおおまかに作風の変遷を見ると、ソフトハウスキャラ作品史には以下のような傾向が見出される。
  1) 『葵屋』~『真昼』:挑戦要素を重視した、ゲームシステムの比重が大きい作風。
  2) 『アルフレッド学園』~『DC』:ゲームパートを操作してイベント分岐を楽しむシミュレータ。
  3) 『南国』~『忍流』:シミュレートされた世界全体の大きなうねりを楽しませる。
  4) 『DAISOUNAN』~:定期的に旧作コンセプトのリメイクが行われるようになった。
  5) 『BB』~:RPG的なユニット成長要素を重視したゲームシステムが採用される。
  6) 『雪鬼屋』~:主人公設定がアウトロー的性格を弱め、全体に明るい作風に。
もちろん、グラフィック面に着目した分類もできるし、声優起用に着目した傾向的変化もある。


  映像ディスクは、BDの方が桁違いに画質が良い(高精細である)ので、BDとDVD両方の選択肢があるならばBDを買ってしまうのだけど、DVD水準でもたいていは十分鑑賞に堪える画質だし、取り回しのしやすさという点でもDVDの方が気楽に見られる(――ただし、DVDはものによっては、クレジットの文字が潰れて読みにくくなっているとか、動きの激しいシーンで画面がざらつくくらいのことはある)。好きな作品がBD版で再リリースされると、その都度買おうか買うまいか迷ってしまう。音質も向上しているし、フィルム自体がリマスターされてさらに画質が改善されている場合もあるので、買い直す意味はあるのだが……。


  [ www.enoshimababy.jp/radio.html ]
  あっ、「江ノ島ベイビィ」ラジオはまだ全話のファイルが残っているのか! 以前(十年くらい前)にDLしてCD-Rにバックアップしてあったのは、PC新調した際に再生してみたらファイルが壊れていて悲しい思いをしたものだったが、オリジナルデータが丸々残っていたとは。感謝しながら聴き返そう。11年前の阪田氏と門脇氏の華やかな記録。


  最近は「(特定の声優さんの)祭」を催していないなあ。素晴らしい木村あやか祭(9キャラ登場)を挙行できたという意味で、「背面立ち絵」記事は私の書いたものの中で最も成功した一本だったし、同様に「ケモ耳」記事も、木村キャラのスクリーンショット6連続という密度の高いものだった。(問題はそこじゃない)


  かどわきさんにニャーニャー言わせるのは、ずるい、ずるいよ!(「江ノ島」#7)


  10年代に入った頃からか、キャラクター名字を特定のカテゴリー(温泉地名や特定路線駅名)にするネーミングが激減しているように思う。カテゴリー系ネーミングは、デメリットとしては「安易である」「予想外のところでユーザー個人の実生活に結びついてしまう虞がある」といったあたり。メリットは、「名前などはどうでもいいので、そこに不必要な手間を掛けなくてもいい」「ネタに気付くとちょっと楽しい」といった程度。 まあ、キャラクターの名前も丁寧に設定されるようになっているということであれば、歓迎すべきことだろう。


  今月の新作は買いたいものが少なかったが、来月はアクの強いタイトルがたくさん発売されるようなので、両方合わせればバランスが取れるかも。


  私自身が不摂生をしたわけではないが、教室内冷房+ストレス+風邪引きと会議+気温変化に晒された結果、夏風邪を引いてしまった。早めに薬を飲んで安静にしつつ栄養も十分摂っているが、すぐには治りそうにない。食欲も落ちているし、いっそ一週間くらい休講にしようかな……。
  もとより最大HPが極端に低いタイプの身体なので、これが病気になってさらに半減状態になると、とにかく仕事が進まなくなるし、ゆっくり休んでいる体力すら無くなる。



  06/09(Fri)
  どうやら私はかなり小顔で、しかもここ数年で減量してきて顔立ちがさらにスリムになったので、眼鏡の横幅の広さがちょっと目立つようになってきた。しかも度が強いせいで、レンズ越しに見える顔の輪郭がさらに内側に引っ込んでいて、ズレがかなり目立つ。また、レンズにも細かなキズ(コーティングの局所的な剥がれ)がいくらか生じてきている。……というわけで、横幅小さめの眼鏡を新調することにした。現在の眼鏡はたしか十年以上(!)使っているのだが、視力はまったく落ちていなかったようだ。相当酷使しているはずなのだが、耐えてくれていてありがとうありがとう。

  小顔だと、ヘッドフォンを締めて使わなければずり落ちてしまいやすいというのもデメリットになる。ただし、緩いぶんには締めて使えばいいだけだが、頭が大きくてヘッドフォンがきついという人は対処のしようが無いだろうから、小さい方がまだしも融通が利くと言えるかもしれない。


  名前の無いキャラや固有名詞の無いキャラ(例えば、クレジットでも「○○の友人」としか書かれていないキャラ)は、声優名カッコ仮で呼んでしまう。兼ね役で演じられている場合は、特定性に欠ける対処法だが、とりあえず名前をもってアイデンティファイしようとする際には便利だ。「○○(仮)の人がいる」とか、「そうそう、あのシーンで○○さんが演じているキャラね」といったような呼び方は、うーん、通じる人には通じるという程度にすぎないが、とりあえず自分一人で思考する分には問題無い。ひとによっては、そのキャラの台詞を適当に抜き出して「『○○』の人」くらいに呼ぶ方が分かりやすいかもしれない。

  上原ともみさんだったり誰さんだったりそれさんだったりする声優さんも、どう呼べばいいかでいつも迷う。おそらく最も知名度の高いキャラは涼宮茜なので、それに合わせて上原氏と呼ぶのが無難かと思うけれど、あまりしっくり来ない。「(キャラ名)の人」という呼び方は、便法としてはありだが、役者のイメージを特定の一つの役のみに結びつけてしまうことに多少の抵抗感がある。というか、この方の場合は、お芝居そのものがどうにも捉えがたい個性をお持ちで、その意味でもいつももやもやさせられている。


  SHCのBBS閉鎖は、良い判断……というか、やむを得ないと思う。なにしろ、見ていられないくらい投稿内容がひどかったので。葵(仮)ちゃんの投稿はログを取ってあり、2003年8月から現在まででテキスト201KBになっている。『BB3』のディスク交換は8月末までとのことだが、どうしようかなあ。



  06/08(Thu)
  しごとしたくないでござる……。
  大きな仕事が入ってしまった。もちろんただ働きではないし、たいへんありがたい追加収入ではあるし、それはそれでそれなりの面白味のありそうな仕事ではあるのだけど、そのぶんだけ私生活の時間が削られるのが辛い。身動きが取りにくくなるし、趣味生活の時間も無くなるし、そうすると全般に心の余裕が無くなっていきそうで怖い。報酬はそこそこ出るようだけど、例えば年額にゃん百万かそこらでは割に合わない。いや、わりとたいした額ではあるのだけれど、趣味及び研究の時間が大きく奪われるのは私の人生の意味そのものに関わる致命的影響と言えるし、この程度では私の今後の人生全体の安定確保や路線決定にはまるで足りない。この時期のこれだけの負担が、人生の残り数十年のありように対してどれほど大きな影響があるかと考えれば、正直に言えば一桁足りない。うぐぅ。
  傲慢とか贅沢とか思われるかもしれないけど、これはこれでオタクとしての本音なのよ。


  【 せいゆうさんのけっこんニュースにショックをうけるひともいるらしいし…… 】
  声優に対して(擬似)恋愛感情を抱いてしまう人もいるようだけど、精神的に深く付き合う相手としては「声優(役者)」なんてのは超上級者向けの難物だと思うよ……。仕事柄、演じるキャラクターに深く入り込んではそれをみずからの力で作り上げ、録音や公演が終わればそれを即座に振り捨ててまた新たな役に沈潜していくという、わりととんでもないことを日常的にこなしている人たちだ。よほど精神的にタフであるか、あるいは意識の切り替えが上手であるか、あるいは完全にナチュラルボーンに架空のキャラクターに入り込める特異な精神構造の持ち主であるか、いずれにしてもそこらの一般人ではとてもついていけないだろう。
  アニメ声優でも、レギュラーであれば最低3ヶ月(一クール)もの間、一つの役を自分の心の中にずっと仮住まいさせておかなければいけない(――といったことを中國氏も語っていた)。ゲーム作品の収録でも、メイン級のキャラクターであれば台詞数は数千ワードに上り、孤独な収録ブースで一日何時間もずっとそのキャラクターの台詞をひたすら演じ、しかもそれを何日も十何日も続けなければいけない。もしも私だったら、おそらく十分も保たずにキャラが崩れはじめ、一時間もしないうちに心の限界が来るだろうし、もしもそれを何日か続けられたとしたら今度はそのキャラクターに自分の意識が支配されて「私」が分からなくなってしまいそうだ。意識の全面的専心という点で論文執筆にも似たようなところはあるが、役者の場合はその都度の役が外在的に与えられたものであり、しかも芝居が終わったらそれらをきれいに捨て去っていくことになるという点で、役者の方が心理的にははるかに難しい活動を営んでいるだろう。
  そのくらい、芝居によって役を作り上げるというのはたいへんな作業だし、そういうことが出来るようになっている役者(声優)とは本当に怖い存在だし、そして――最初の話に戻ると――恋愛の相手や生涯のパートナーとして付き合っていくのはけっして簡単なことではないだろう。キャラクター芝居の中で、いかにフレンドリーな声を聞かせてくれていても、本質的には、みずからの価値観を強固に確立したクリエイターなのだ。なまじのオタク程度ではとても相手をしきれない、巨大な存在だろう。……と私などは思うのだが、web上で声優等に対して(擬似)恋愛感情を持っているような人を見ると、ああ、でんじゃらすだなあと……。

  映画俳優や芸能人がわりと頻繁に離婚する羽目になるのも、同じような事情ではないかなあ。カメラの前で、あまりにもきらびやかで圧倒的なまでの魅力を振りまいている様子を見れば、お互いに惚れてしまうのも当然だし、そしてカメラの前ではなく私生活の局面を共有することになれば、お互いのあまりにも強固な個性に折り合いを付けていくのは、おそらくきわめて難しいことだろう。


  つくづく、オタクにとって大事なのは、金ではなく時間だ。
  いくらお金があっても、好きなものをなんでも買えるとしても、それを実際に自分で楽しむための時間が無ければ、意味は無い。私見では、オタクとは、名誉欲や所有欲のようなものよりも自分自身の楽しみを――しかも作品にみずから向き合うという実質的な体験を――こそ重視するものだからだ。
  逆に、学生時代を考えればよいが、お金があまり無くても十分な時間があれば、オタクはいかようにでも自分の楽しみを開拓していくことができる。私見では、オタクとは、自分なりの楽しみを作っていくことのできる自立した趣味人のことだ。
  そして、オタクライフは、案外安くつくものだ。もちろんオタク界にも稀覯本や高級機はあるが、それら無しでもオタクはいくらでも楽しめる。例えば、2017年現在の日本国内で1万円で入手できる範囲の商品でも、オタクは100時間は楽しむ術を知っているだろう。あるいは1000時間すら可能だろう。私見では、オタクとは自分なりの楽しみを見つけ出すことができ、あるいは自分が楽しく過ごせる様々な方策を知っている者のことだ。
  また、経済的余裕を持つことによってたしかに出来ることは増えるとしても、しかしながら、お金を掛けたからと言って自動的に楽しみが深まるとは限らないのがオタクの世界だ。10ページ1000円の同人誌よりも200ページ500円の商業単行本の方が、平均的にははるかにクオリティが高いし、3万円のレジンフィギュアを作るよりも1万円の完成品フィギュアを買う方が、はるかに確実に、そして高い確率で、クオリティの高いものが得られる。カメラやヘッドフォンのような機材レベルではコスト相応のアドヴァンテージが得られることもあるし、2千円のフィギュアよりは1万円のフィギュアの方がハイクオリティだったりするが、一般的にいえば「作品」の次元では価格とクオリティと主観的満足度は必ずしも比例していない。
  そういう意味で、現在の二次元系オタク趣味は基本的には「金よりも時間」の世界だ。

  廉価版や移植ものを除外して考えるとしても、CD一万円分で100時間保たせることは十分可能だし、プラモ数個と工具等を1万円以内に収めたとしても制作に100時間掛かることはあり得る話だし、フルプライスSLG1本とロープライス1本でも100時間は余裕で楽しめる。書籍(漫画やLNの20冊分)でも、100時間で何度読み返してもその都度刺激に満ちた発見が得られるだろう。さすがにアニメBDがたった2本では苦しいかもしれないし、アーケードゲームを1万円で100時間、つまり1プレイ1時間もプレイしたらゲームセンターは商売上がったりだろう。


  【 発射音SE 】
  『夏神楽』や『鬼神楽』ではアダルトシーンに射出音(婉曲)のSEがあったが、分野全体で見るとあれはかなり珍しいものだった。怖ろしい妖怪によるものだというシチュエーション上の意味合いもあったのだろうけど、男性主人公の発射時にもたしかSEは付いていたし……。黒箱系では他にもいくらか実例はあるが、白箱系ではほとんど耳にしない……意外だ。最近では多少増えてきているようだが、総数としてはかなり少ない。
  実際的な話をすると、ヒロインの最期の悲鳴音声と重なることになるため効果音がはっきり聞き取れないし、また、ユーザーたちのイメージ(ってどんなのだ)に合った効果音を作るのが難しいという事情もあるかもしれない。『鬼神楽』の場合は、やたら凝っていてしかも長時間(数秒)のSEで、「妖怪こわーい! おぞましーい!」という説得力(?)はあったように思う。

  ラブコメシーンの殴打SEがやたら迫力があって痛そうな作品もある。むしろその効果音の派手さがさらなるギャグ要素になっていたりするくらい。



  06/07(Wed)

  【 従姉妹ヒロイン 】
  従姉妹ヒロインも良いものだと思うけど、非常に少ない。属性的に考えれば「幼馴染+姉or妹」という魅力的な位置付けになるのだが。アダルトゲーム(恋愛系)における「従姉/従妹」設定の不利を挙げるならば、1)幼時から交流のあるヒロインとしての側面を描写しようとすると、話の経緯が長く鬱陶しくなる。2)学校等における友人関係ではなく、親族関係をベースとした人間関係なので、ヒロインたちの中で従姉妹キャラだけ人間関係が偏ってしまう。3)個別シナリオに入ってからも、双方の家族が出しゃばりすぎる危険がある。双方の親を外したかたちでストーリーを進めるのも、かなり面倒なことになる。4)姉や妹と比べると関係が迂遠だし、一般の幼馴染と比べるとドラマ性に欠けると思われるのかもしれない。だいたいこんなところだろうか。黒箱系ロープライス作品ならばこれらの多くの問題をスキップできると思うが、やはり数は少ない。
  アニメでも、似たような使いにくさがあるだろう。実の姉妹と比べると距離感が中途半端だから、わざわざ従姉妹にするメリットが無いし、幼馴染としても自由度が低くなる(――それに、そもそも幼馴染ヒロインそのものが減っているようだし)。
  アダルトゲームでは、00年代前半から半ば頃までは従姉妹ヒロインが定期的に出ていたし、人気キャラもわりと多かったように思う。『夏めろ』や『つよきす』はもう十年前、『Kanon』『痕』あたりはほぼ二十年前になってしまう。最近では、登場してもサブキャラどまりだったりする(『せんすいぶ』『間宮くんち』『千恋』など)。ここ数年のタイトルで、私がプレイした中では、『サクラノモリ』『南十字星』『アイルノーツ』あたりか。ブランド単位だと、ういんどみるやSkyFish、すたじお緑茶が定期的に従姉妹ヒロインを出してくれている(orいた)。


  [tw: 870662223684751360 ]
  先週末(大阪)は動ける余裕が無かったけど今週末の兵庫ならば行けるし、せっかく関西にいらっしゃることだし、足を運んでみようかな……。おそらくミニステージ型のカジュアルなイベントだろうから、今回はエンジンの欠片金平糖の差し入れをするような場面ではないだろう。

  しかし、以前(昨年11月)に同じような規模のイベント(コンサート)に行った時は、どうやら心のキャパシティが壊すほどのインパクトを受けて、大変な目に遭ったのだよなあ……。いや、今回は大丈夫だろうとは思うけど……声優にじかに接近する(謦咳に接する)というのは、本当に怖いことなのだ。


  【 声優さんへの依頼を妄想する 】
  適当な思いつきなのだけど、例えばこのブログの適当な記事を書籍形態(同人誌)にして発行するとして――まあ、言ってしまえばそれを口実として――その際に声優さんに依頼を出して全文読み上げ音声CDを同梱するというのはありだろうか。現在の私の状況で、最も手近なアクセスはこのやり方であろうかと思われる。

  既存の枠組で言えば「ナレーション制作」にあたると思われるが、企業向けのナレーション制作だと非常に高くつく。専業ナレーターさんに依頼すると料金は数十万円にもなり、これはさすがにシャレや冗談で出せる額ではない。しかし、声優系事務所に依頼するのであれば、料金体系はかなり違ってくるようだ(――ゲーム収録と同じようなワード換算での料金であれば、1万字程度ならば程々の額で収まる可能性がある)。しかも現在では、「同人音声作品」というジャンルが確立されているくらいなので、法人カテゴリーではなく同人カテゴリーとして割安な依頼先を探すことは可能だろう。「同人での音声仕事を断っておらず」かつ「連絡先が判明している」声優さんであれば、依頼することは十分可能だろう。方向性は少々異なるが、「まきいづみのひゃくにんいっちゅ!」みたいな感じになるだろうか。
  冊子印刷費+CDプレス代+音声報酬をそこそこの費用に収められるならば、わりと現実的なように思える。あるいは、いっそ、web上に無料公開するのでも構わない。同人誌を販売しても赤字になるようならば、コストを掛けずに無料公開で済ませる方がベターだ。一般的な音声朗読のスピードだと、分速300字前後のようだから、たとえば3万字のテキストであれば、読み上げだけでも拘束時間は2時間弱。1万字程度であれば30分強。もちろん下読みの時間もあるし、技能職に対する報酬でもあるし、音響制作全体の費用(スタジオ代や録音スタッフの分)もあるから、数万円は見込んでおかなけばいけない。……一度見積もりしてみようかなあ。

  内容面では、詩の朗読会のような創作性が求められるわけではないから、声優さんの側にも負担は小さいだろう。ただし、内容次第では、あまり楽しんでもらえないという可能性もあるが、「アダルトゲーム関係の文章を、アダルトゲーム声優さんに読み上げてもらう」というのであれば、それなりの面白味は生まれるだろう。
  完全に妄想の段階だが、オーソドックスに美月氏や七ヶ瀬氏に依頼して説得力のある語りを披露していただくのも良さそうだし、まき氏や藤咲氏にのんびり読み上げていただいて寛いだ音声空間にするのも楽しそうだ。よく寝れそうとか言わない。もちろん、録音に立ち会って収録現場の様子を知るというのも、自分自身にとって意義深い体験になるだろう。

  最大の問題は、音声として聞くに堪える文章が無いことだが。画面演出や音響表現の話題だと、テキスト(言葉)の部分だけを読み上げても説明として不完全になってしまう。情報収集系のテキストも、読み上げても何の面白味も無いだろう。やはり、あくまで机上プランの域を出ない、ただの妄想にすぎない。

  もちろん、もっとちゃんとした仕事で依頼する方が望ましいのだけど、大学関係では(予算の問題を別としても)なかなか良い機会が無い。学会の司会などは所属会員が担当するし、専門性の高い国際会議などでは尚更困難だし。パーティー(懇親会)も、開催校の施設を使ったり外部のセットプランを使ったりするのが通例なので、個別にナレーターさんや司会業者さんに依頼する余地はほとんど無いし。



  06/06(Tue)

  【 誕生日について 】
  昨日、ろくがつごんちはずっと寝てました……忘れてたー! おめでとうございます。
  五月末頃にはちゃんと思い出していたというのに……不覚なり。

  実のところ、私が誕生日を記憶している声優さん(またはその他のクリエイターや有名人)は、ほとんどいない。えーと、12月2日はたしかあのアクセルの方で、数字をずらして1月22日だとそちらの方で、2月22日はギャルドなあの方で、その相方パーソナリティの方は1月10日で、いいふーふの11月22日はあのメイドさんで、クイックな9月19日は執事さんで、えーと、そのくらいかも。注目している声優さんでも、誕生日のようなパーソナルデータには興味を持たないので、webラジオなどで何度も耳にするくらいでないとなかなか憶えない。6月5日も、日付がヒントになっているのとたまたまお二人もいらしたのとで印象に残りやすかったけど、そういう事情が無ければ憶えていなかっただろう。ハムカツ君(たしか10月の何日か)やマエストロ(5月?…いや違った4月)すら誕生日が思い出せないという体たらくだ。
  誕生日を憶えないのは、誕生日それ自体には何の意味も無いからだ。友人であれば、誕生日を憶えていればちょっとしたものをプレゼントして喜ばせたりできる適当なきっかけになり得るが、そういう機会も無い他人(たまたま個々の作品を通じて私がその存在を知っているだけの人物)は、誕生日を憶えていても「暦法上の数十単位前の時間にその人が出生した」という事実以上のものにはならないからだ。まあ、もしも私がSNSでフォローしていて誕生日お祝いメッセージを送れる状況にあって、なおかつメッセージを送ることをするような人間であったならば、あるいはwebラジオのリスナーであって投稿メールを送っているとか、ファンとしてファンレターやバースデープレゼントを事務所に送付したりするようなタイプの人間であれば、私ももっと多くのクリエイターや有名人の誕生日を頭に叩き込んでおいて、忘れずにアクションを起こしていただろうけれど、今の私はそうした前提条件を満たしていないので……。


  キーボードの上にお茶をひっくり返してしまったが、一切触れずにPCの電源を切ってよく洗って一晩置いたら、何の故障もなく使えた。キーボードの隙間の埃もきれいに洗い流せたことだし、なんだか塞翁が馬な気分。ただし、キーボード表面がわずかながらベタつくようになったので、今晩もう一度、洗剤でしっかり洗浄してやろうかと(調子に乗りすぎ)。



  06/03(Sat)

  【 人気キャラ 】
  ういんどみるのようなキャラクター人気投票を各ブランドで開催したら、どのあたりのキャラが出てくるだろうか。
  alicesoftは、おそらく『Rance』関係者だろう。他にあり得るとしたら『超昂』シリーズのヒロインたちくらいか。
  SHCだと、2010年の人気投票では依然としてリュミスがトップだった。その後(『雪鬼屋』以降)の8タイトルを含めると、アルテ、ティーナ、クレアといったトップヒロインがランクインしてくる可能性が高いが、全体の順位はあまり変わらないかも。このブランドの作品は、個別キャラの人気が牽引するというよりは、多数のキャラクターたちが行き交う作中世界の広がりこそが楽しいということが多いが。最近のタイトルでは、個人的にはサシィやミライが印象深い。
  Escu:deだと、ワントップヒロインでFDまで出した『ふぃぎゅ』のイフリナや、シリーズものの『プリマヴェール』が注目されそうだ。男の娘主人公の白羽依月や、ダークホース的なククリク様とか、後はハタヤマ君とか。
  Purple softwareやWhirlpool、UNiSONSHIFT、PULLTOPのような多作な白箱系メーカーは想像しにくい。PSWだと、『ハピメア』あたりは世間的にも人気キャラが多そうだ。『秋色』『明日君』はもう十年以上前のタイトルだが、当時からのファンはまだまだ多いだろう。
  黒箱系やピンク系――例えばGuilty、かぐや、つるみく――はどうなるだろう。特に黒箱系は、そもそも「人気」というものを通常の意味でストレートに語ることが難しいかもしれない。


  【 アニメ媒体の長所と短所:キャラデザの美術的統一、時間表現上の制約 】
  『恋姫†無双』『○極姫』のような擬似歴史ゲームや多くのソシャゲー/ブラゲーのように、原作ではキャラデザ担当が何人もいてゲーム画面の美術的方向付けが完全に破壊されていたタイトルが、アニメ化されてキャラデザに統一感が与えられるのを見るとほっとする。
  もっとも、アニメ作品でも実際には(総)作画監督の下に多数の作画スタッフが分業制作しているため、一定のゆらぎはある。また、基礎となるキャラデザそれ自体が、そうした制作体制に適したように無難なかたちに、なおかつアニメーションに適した水準まで、簡略化されていることも多い。それでもやはりなおも、玉石混淆のイラストレーターたちを大量投入していた物量任せな原作の散らかりように比べれば、はるかにマシだ。

  ただし、アニメはアニメなりの媒体的制約もある。例えば、漫画では一つのコマに複数の台詞を詰め込むことができ、本筋部分の会話進行と、脇筋の台詞(手書き文字によるツッコミなど)といった多層的並行的なテキストの厚みがある。しかし、アニメ作品は、(ガヤ台詞を別とすれば)基本的には一人ずつ順番にクリアな台詞を発していくというスタイルの会話の応酬になる。そのため、原作漫画ではごく簡単にやり過ごされていた軽い台詞が、アニメで同じシーンを表現しようとすると細かなツッコミ部分まで時間を取って生真面目に聞かせていく形になるため、非常にテンポが悪くなる場合がある。
  同様に、アクション表現についても、ほんの一コマの中で処理してしまえば、漫画読者はその一連の動作を自己の現実的時間感覚の中でほんの一瞬のうちに――「ほんの一瞬」程度の表現上の重みを持つものとして――処理することができる。しかし、それをアニメ作品の中で愚直に再現しようとすると、一連の動きを何秒もの時間を掛けて描写していくことになり、結果としてそのアクション全体の印象が大袈裟で鈍重なものになってしまう。
  個々の描写の重みと軽みをコントロールする表現様式と、それらを成立させている媒体的構造原理とが、大きく異なるのだ。漫画では、コマ単位の分節化を基礎として、その下での事象継起の機能的省略が行われたり、あるいはコマの大小の自由度と対応した記号的デフォルメの度合いの自由さが可能であったりする。それが漫画の様式感覚を作り出している。それに対してアニメは、運動のリアルな(擬似)再現的表現や、時間的な厚みを伴った表現を得意としている。双方はそのままでは互換困難なものであり、その落差を適切に埋めるよう配慮するのがアニメ監督の務めになるのだが、それは必ずしも常に十分には果たされていない。


  [ baseson.nexton-net.jp/kakumei-gi/character/data-go13/ ]
  素晴らしい……。個々の台詞の中に潜在的に含まれている様々な表情をその都度的確に見つけ出して自身の音声へと反映させ、さらにユーモアセンスに満ちた味付けの芝居へと方向付けていき、それでいて台詞全体の前進的なリズム感は保たれており、しかも常にキャラクター造形の芯はくっきりと確立されているのが、このサンプル音声だけでも分かる。かなりコミカルに大袈裟な変化もつけているのだが、けっして下品にならず、むしろあくまでクールな「芝居」の次元で聴ける。
  このように巧みにコントロールされた芝居ぶりを聴くと、のめり込み型(憑依型)の役者ではなく、やはりこの方は俯瞰型の役者さんであるように思える。この味付けの濃いコミカルな表情づけは、素朴な芝居からはけっして出てこない種類のものだろう。あるいは、個々の台詞の中に潜んでいるユーモアを感じ取る感性が非常に鋭くて、しかもそれを大袈裟に表現してもけっして破綻させずにいられるという絶妙のバランス感覚を持っておられるのか。
  ところでこの魯粛、下っ端新人扱いなのかよ!

  それはそうと、杏子氏は杏子氏で『万華鏡』新作に出演されるようだ。しかも男の子役で。なんと怖ろしい……心の感激のキャパシティを超えてしまいそうで怖ろしい。



  06/02(Fri)
  [ sr-ktd.hatenablog.com/entry/2017/05/30/234556 ]
  先日の話は、どうやらこの記事が震源地だったようだが、一読してあきれたし、そしてそれ以上に腹が立った。

  例えば、のっけから「ノベルゲームブランドの中ではTYPE-MOONが一人勝ち」というメチャクチャなコメントが出てくる。TMはスタンドアロン志向のPC美少女ゲームとしてはここ5年間まともな新作を出しておらず、むしろkeyよりもプレゼンスは小さいくらいであろうと思われるのに、「一人勝ち」とは、いったいどんな別世界に生きているのだろうか? alicosoftやAUGUSTやclochetteやゆずソフトやみなとそふとやういんどみるや、さらにはHARUKAZEやまどそふとのような元気な新興ブランド群まで犇めき合っている中で、それらをすべて無視してTMが「一人勝ち」とは? それでいてこの人物は、「ノベルゲームの歴史とか知らない人までちやほやしだす」状況を苦々しく思っているようだ。よく言うわー。もしかしたら「ノベルゲームを作ったこともあったりするような、オタク系のブランド」という趣旨かもしれないが、それを「ノベルゲームブランド」とのみ言い切るのはさすがに文字列から想定される一般的語義の範囲を逸脱しすぎている。
  要するにこの部分だけでも、この人物は歴史把握も現状認識もきわめて疑わしいし用語法も乱雑すぎるというのが見て取れる。

  また、この人物は結局のところ、作品の評価を売上に依存しており、しかもそれを「勝ち負け」の問題と捉えている。作品評価に「勝ち負け」という視点を持ち込んでいる時点で、幼稚にも程があると言わざるを得ないし、それに振り回されているようでは尚更だ。作品の評価とは、あくまでその作品の内容上の特質を見るべきものだし、他の作品との間で「勝ち負け」という視点が入ってくる問題ではない。
  そもそもTMとkeyの勝ち負けなどというのは、例えば匿名掲示板レベルで扱われるのが相応しい程度の浅薄でふざけたweb喧嘩ネタにすぎまい。そんな軽薄なネタでよく言うわー。そんな「勝ち負け」(!)で悩んでしまうとしたら、その人物は繊細なのではなく、ただ単に党派意識過剰なだけだろう。もう少し言えば、セールスの次元の問題に一喜一憂できるメンタリティはずいぶんデリカシーに欠けるし、勝ち負けを気にするのはけっして平和的ではなくむしろ本質的にはきわめて好戦的な性分だろう。
  要するに、1)ブランド間の「勝ち負け」を評価基準にしており、2)しかも作品内容ベースではなく売上ベースの「勝ち負け」であり、3)TMもkeyも十分メジャーであって互いの商売上の優劣比較はきわめて瑣末である。このような意味で、きわめて愚かしい主張を述べている。

  一番腹が立ったのは、何の衒いもなく平然とkeyの「負け」を口にしている点だ。上記のような「勝ち負け」意識のせいで、この人物は「keyが負けた」ことにしている。手前の勝ち負けごっこの都合で一つのブランドの活動と実績を「負け」呼ばわりすること、それこそがまさにkeyを侮辱する行為だろう。繊細ぶった語り口の中味がこの有様か。知的廉直のみならず、自分が好きな作品に対する道義的誠実すら保てないのか。そんな失礼なことをよく言うわー。私自身はkeyブランドのことはあまり好きではないが、それでもアダルトゲーマーの一人として憤慨せざるを得ない。

  「常にマイノリティの側に寄り添うKey」というのは、笑ってあげるべき冗談なのだろうか? VAの強力なバックアップを存分に享受することによって、音楽制作から背景美術、宣伝面、そして制作期間の余裕に至るまで(一応表面上は)ハイクオリティな作品作りのできる環境にあり、その順当な結果としてアダルトゲーム分野ではマジョリティとして圧倒的な知名度を我が物にし、そして幸いにも好評を博してきたのが(特に00年代中の)keyだったのだが。敗者の強がりどころか、ずいぶん能天気な話で、あきれてしまった。仮に作品内容(例えば主人公の姿勢)という意味ならば、当てはまらなくもないが、前後の(論旨不明瞭な)文章とのつながりがおかしくなる。これまでkeyという大樹(その知名度と権威)に寄りかかっておいてよく言うわー、というのが率直な感想だ。しかもそれでいて、自分(の好きなブランド)がマイノリティになること――「負け」ること――を過剰に怖れるとは、いかにも茶番めいている。

  全体として、自分自身(?)の批評の内容的挫折をkeyの側の商業上の「負け」へと責任転嫁するという厚顔無恥なことをやらかしつつ、ナルシスティックな自己憐憫に浸っているようにしか見えない。また、こんな中味のない鈍感な一人語りが話題のきっかけになってしまうくらい、あのあたりの言論空間は貧しくなっているのかという驚きもあった。


  学問において「永続的真理」の獲得が困難である以上に、批評において「永続的真理(永く有効であり続けるアプローチ)」は成立しがたいものであり、そしてそれゆえ、新たな作品によって新たな視点や新たな局面が展開されたならば、批評はむしろその都度嬉々としてそれに取り組むべきなのだ。最新の作品にも追いついて、それらをすべて健啖に食い尽くし消化し尽くして自分なりの議論の中に吸収してアップデートしてみせるのは、批評の醍醐味の一つであり、またおそらくは使命の一つでもあるだろう。
  そしてまた、批評は、学問ほど厳密ではないかもしれないとしても、学問と同じように、知性ベースの分析的な活動だ。つまり、言語的正確性や客観的実証性や論理的整合性や実用的妥当性を物差しとして、間違ったものや不正確なものや的外れなものはどんどん篩に掛けられていく。知を基準にした厳しい相互吟味の場であるという点では、批評も学問も変わらない(――現実の個別事例はともかく、少なくとも理念上はそうあるべきだ)。愚か者はすみやかに淘汰される世界だ。その覚悟をまずは学んでくるべきだ。
  ただし、個々の批評は死ぬことがあるが、批評行為全体が死ぬわけではない。双方を混同してはいけない。たまたま自分がこれまで奉じてきた批評が死ぬことになったならば、知的に受け入れなければいけない。それは健全なことだ。一つのアプローチが失敗に終わった時に、それと心中するのは、知的誠実でもなんでもない。むしろ、固定観念を変えようとしない知的怠惰であり、それ自体が批評意識の死なのだ。そしてまた、一つの批評が死んだ際に、一つの批評(の個別的議論やアプローチ)の死を批評の営為それ自体の生死と同一視するのが筋違いであることも、あらためて言うまでもない。自分のこれまでの考えが役に立たないものになったとしても、新たな批評への希望を失わないのが、知的な姿勢であり、批評的姿勢なのだと言うべきだろう。敗北の感傷などに浸っている暇は無い。
  この程度の前提も分からない者は、批評の看板を掲げるにはまだ早い。


  人間の知性や道徳観はひとによって様々であり、またひとによって様々に限界があるので、その点は過度に悪く言うつもりは無いし、自身の知的限界等のために自分のやりたい活動が不幸にして挫折してしまった(と感じる)ならばそれはそれで可哀相ではあるし、知的活動能力の限界によって特定分野に関して致命的に的外れなコメントをしてしまうことも人間の可謬性の一つとしてある程度はやむを得ないかもしれないし、自分が好きなブランドを「負け」たと口にせざるを得なくなったことにも当人なりの「心の真実」のようなものがあったりするのかもしれず、それはそれでそれなりの尊重を置くつもりではあるけれど、しかし手前一人の愚痴のために特定のブランドを不当に貶めて憚らないというのは、さすがに看過できなかった。私自身はべつに水に落ちた犬を叩く趣味は無いが、この人物の場合は水に落ちたポーズをしつつ水たまりの泥を周囲に撥ね飛ばしているようなものだし、そういう姿勢の者に対しては「大人としての相互的節度と失敗に対する寛容さをもって遇する」というのが非常に難しくなる。


  結局のところ、幅広い視点でできるだけ多くの対象を考慮に入れること、きちんとした実証を基礎としつつ常に情報をアップデートすべきこと、自分の中での評価基準を常に自己吟味しなけれはいけないということ、そういった最低限の前提を自分の中に確立させていなければ、批評であれ学問であれ、まともなものは出来ないということだ。そうでなければ、このようにトップブランド二者間の勝った負けたの争いごときに汲々としてしまったり、分野内でのプレゼンスに関する的外れな誤認にいつまでも囚われていたり、自分が何をしてきたのかについてろくな説明もできないままに終わってしまったりする。怖ろしい不毛の世界に囚われてしまわないためにも、思考と議論の手続的諸前提を理解しておくことはきわめて重要なのだ。


  某webラジオのトーク。女性が料理できなくても構わないと思うんだけどなあ。多忙な職業人であるならば尚更。そんなことを基準にして人を選別するような者とお付き合いを続けなかったのは、結果的に良かったのではないかなあ(――ただし、そのお相手さんにも何かしら事情があったのかもしれないから、それだけで一概に人間性を判断することはできないけれど)。もちろん、その後、料理をされるようになったというのは、それはそれで良いことだ。役者の肥やしになる知識が増えたという意味でも、あるいは趣味(?)が増えたという意味でも。



  06/01(Thu)
  旧作再プレイは楽しいけれど、未プレイタイトルを新規にプレイするのと比べるとやはり不毛な時間になってしまいやすい。今月は既プレイタイトルに触るのを一切禁止しよう。フリーセルや囲碁将棋ソフトなども含めて。

  そんなことを言いつつ、今日は大学時代(学部時代)に聴いたCD――のセット再発売――を久しぶりに聴いていたりする。当時とは音響環境もずいぶん違っているし、楽曲に対する理解もそれなりには深まっt…ていたらいいなあ。十年も聴いていなかった演奏なので、懐かしさよりも新鮮さと面白さが勝っている。それでいて、当時聴き込んでいた感触は私の頭と耳にしっかり残っていたようで、細部を捉えつつ全体の見通しをもって聴けるだけの余裕があり、面白さを味わうのに専念することができる。
  これはまさにゲーム(特にSTGなど)の再プレイにも当てはまることで、自分の目と手先に残っているパターン認識を手掛かりにしつつ、2017年現在にアップデートされた知的蓄積および感性的キャパシティをもってゲーム体験をよりいっそう深く受け止められるようになっている。


  【 90年代のアダルトゲーマーたちの気風? 】
  90年代末頃までのアダルトゲーマーには、システム面からの理解や分析を示せる人もわりといた。90年代のうちからウェブサイトを開設したりして情報発信できた層というのは、パソコンや先進的デジタル技術に敏感であったり、それらに関する比較的高度な知識を修得していたり、それらへのアクセスが比較的容易な環境にいたりする層、すなわち典型的には工学部系の学生/院生であり、したがって当時のアダルトゲーマーの多くがPCゲームに対してもエンジニアリングの発想を持ち得ていたのは自然なことだったと思われる。
  しかしながら、00年代に入ってからの世代はkeyに魅せられた人が多くて、そしてkey作品をモデルとした議論はkey作品くらいにしか通用しないような狭隘さへと向かっていって、その過程でアダルトゲーム分野における分野的多様性と技術的多面性が見落とされていった……というのが私の印象だ。上記の90年代世代は、どういうわけか、00年代にもオピニオンリーダーであり続けることは無かったようだ。

  そうした状況から、私自身は、あらためて技術論の次元に立ち戻ろうとした。すなわち、1)ゲームの構造的成り立ちに関するシステマティックな分析を、2)脚本家以外の様々な側面を重視して、3)できるかぎり幅広く実証的に、なおかつ体系的に、4)アカデミックに通用するような視座設定の下で、遂行しようと試みた。その一つが演出技術論の整理であり、そしてそれは最終的にはSLGにおけるゲームシステムの技術的機能的メカニズムの理解とAVGにおける表現システムの芸術的演出的作用の理解とを結びつけることを目指しており、まあ、ほんの局所的な各論としてはわずかながらそれに近いものは提示できた…のだったらいいなあ。
  ただし、ちよれん過褒に与するつもりも無かった。彼等の表現はしばしば他分野からのデッドコピー的借り物であって、それらは当時のちよれんファンたち(とりわけ00年代半ば以降のminoriファン)が言うような「他とは一線を画した、先進的でハイクオリティな表現世界」などではなかったからだ。keyでもなく、ちよれんでもなく、コンピュータAVGの内発的な技術開拓によって実現されてきたもの、そして我々の共有財産となった様々なゲーム表現の豊かさ全体をこそ、擁護したかった。それが果たせたかどうかについて、肯定的に答えられる自信は無いが。

  そういえば、私がtwにいた時に、AVGにおける文体(style)論の必要性を主張した際に、そちら筋の方々――当人のためにも誰とは言わないが――から「文体論(様式論)は難しくて迂闊にはやれないからねえ」のような反応を返されたことがあり、内心では「じゃあ君たちがやっている作家論風のアプローチならば、君たちのような素人が乱雑にやってもかまわないっていうのかよ、君らは作家論をナメてんのかよ!」と、かなりもやもやした憶えがある。
  私自身、素人といえば素人だが、それでも立ち絵が持つ様々な機能、背景画像のレイアウト(非全画面やアングル変化)、UIデザインの意味作用、e-mote技術の評価、ナレーション表現などは、いろいろ頑張ったよ!(泣) もちろん私以外にもそうした点を捉えて評価しようとした方はいるだろうし、アダルトゲーマーたち(アダルトゲームに対して知的な興味を持ったユーザーたち)がみんなアダルトゲームの発展を見過ごしてきたかのように言われたら悲しい。
  大学で文学論の講義も持っているくらいだから、余技レベルとはいえ素人ではない(素人であってはいけない)のだけど。


  (→7月/5月