2013/10/26

『ひなたのつき』短評

  というわけでショタエルフたちと幸せに暮らしております。


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  【 ショタヒロインの扱い:他社作品との比較 】
  「ヒロインがすべて男性である」という意味では脳内彼女やc:drive.にも先行作品があるが、ただしそこではヒロインたちは、結局のところ男性主人公と対になるべき「異性」的存在でしかなかった。『女装山脈』(脳内彼女、2011)のヒロインたちは自分が(身体的属性においては)男性であることをしきりに強調するにもかかわらず、それらはあくまで背徳感を煽るための手管に過ぎず、彼等はいかにも「女性」的な対応に終始し、そして男性主人公に対して自らの女性的機能を発揮することに専心していた。作中には男性主人公が「男の娘」ヒロインの一人に対して性的に受け身の側に立たされるバッドエンドも含まれるが、それは立場が逆転しただけであって、両性間関係それ自体を放棄するものではなかった。要するに、そのディレクター兼脚本家(西田一)にとって「男の娘」とは、その性役割においては女性の一種でしかないかのようである。『ツイ☆てる』(c:drive.、2007)においても事情は基本的に変わらず、三人のヒロインのうち二人は長髪であり、局部の反応を除けば全体としては非常に「女性」的である。

  それに対してこの作品では、男性主人公とショタヒロインたちとの関係はおそらく異性関係としてのつながりになってはいない。それは、一つには、『女装山脈』のように男性身体基軸の一方的な表現ではなく、官能の原理を同じくする者同士としての共同作業的な行為描写になっているせいもあるだろう。しかし、それだけではない。異種族(エルフ)との間の文化的相違というワンクッションのおかげで、彼等との交流のあり方を「異性との性的関係」の擬制的反復に陥らせず、それとは別様の関係のあり方へと導くことに成功したという側面もあるように思われる。それどころか、種族間の溝が意識されるため、男性人間主人公とショタエルフヒロインたちとの間の関係には、同性愛の趣すら希薄である。あるいは、もしかしたら、異種族との交流をできるだけニュートラルに(人間の世俗的な性愛関係や恋愛関係のイメージから切断して)描くために、あえてヒロインを人間女性にしなかったのではないかと想像してしまうほどに、彼等の交わりには余計なものが介在してくることが無く、ひたすら享楽的な行為としてプレイヤーの前に現れてくる(――実際、のどかな日常BGMのままアダルトシーンを展開する箇所すらある)。この作品が、ありがちなラブストーリー展開――とりわけ異性間関係の物語では、因習的にそうさせられがちな――から手を切ることに成功しているのは、あるいは、恋愛表現から手を切りつつ具体的な他人との交流の物語を展開することに成功しているのは、主人公と「ヒロイン」たちとが同性であるという事実と無縁ではあるまい。男性主人公が具体的な名前(固有名詞)を示さず、「ニンゲン(ニンゲンくん、ニンゲンさん)」としか呼ばれないその迂遠さも、その温和な多対多の交流関係の印象を形成するのに与って力ある。男性ヒロインにすることによって、異性愛関係の通俗化したイメージを遠ざけつつ、さらに異種族ヒロインにすることによって、同性愛関係の通俗化したイメージをも遠ざける。非常に興味深いアプローチである。

  彼等の関係は、一対一の恋愛関係という側面は比較的薄く、男性主導的なトップダウンのハーレムにもなってはおらず、それどころか主人公を介在させないヒロイン相互間の交わり――キャラクター間関係という意味でも、また性的関係においても――にも十分なウェイトが置かれている。選択や支配といった要素を取り除いて、柔和で親密な共同生活の趣を湛えているという点で、むしろある種の乙女ゲーに近い雰囲気と言えるかもしれない。喩えるなら、『夢幻廻廊』(Black Cyc、2005)に対する『翠の海』(Cabbit、2011)の意義と似たようなかたちで、『女装山脈』の後でもこの作品は独自の――そして(男性向け)PCアダルトゲームのそれ以外のあらゆる作品と引き比べてもユニークな――個性と意義を発揮していると思う。


  【 演出面:音響演出の特異性を中心に 】
  演出面では、音響表現も良い。BGMの鳴らないシーンが非常に多いが、単なる無音ではなく、多くの場面で多種多様な環境音が響き続けている。なんでもないシーンでも、風の動きのような音がごく薄く静かに鳴り続けているし、戸外のアダルトシーンの最中でもさまざまな鳥の鳴き声がゆったりと周りを取り囲んでいる。エルフたちとの親密な交歓を描くこの物語に相応しい、落ち着きのある音響空間だと言える。
  無音演出を多用したタイトルは他にもある(cf. 演出技術論Ⅳ-4-2-α)が、その演出効果は、『ヤミと帽子と本の旅人』(ROOT、2002)における神秘性表出や『SWAN SONG』(Le. Chocolat、2005)における重苦しい緊張感ではなく、どちらかといえば『果てしなく青い、この空の下で…。』(TOPCAT、2000)が表していた田舎の空気感に比較的近い。
  また、のどかな日常系BGMのままアダルトシーンに入るという場面もいくつかある。アダルトシーンが作品の中でどのように位置付けられているか、そして作品全体がどのような方向性を目指しているかを、はっきりと体現している個性的な音響演出だ。

  テキストワークも、整理された文章と豊かな語彙に、きちんとした人文的素養の裏付けを感じさせた。ダークエルフの訥々とした喋りを表す台詞回しも労力の掛かった仕事だろう。演じる織田マリも、そのテキストワークの特質に対応して、そのたどたどしさを巧みに披露している。その練達ぶりはさすがである。人間とは異なる長大な時間感覚を代表するかのような、享楽主義的エルフのゆったりとした――通常の発声に倍する長さの――口調を表現する、天川みるくの芝居ぶりも注目に値する。日付を示す月齢進行のカットインもなかなか洒落ているし、エンディング毎に表示されるキャプションも品があって良い。立ち絵変化も、差分数量はそれほど多くないものの、要所を押さえて華やかを変化を見せてくれる。たとえば凛々しい横顔立ち絵や、内気な後ろ向きの立ち絵、あるいは外套や帽子の着脱差分など。全裸立ち絵もある。

  物語終盤の内容に言及すると、ショッキングな忘却演出がある。ある事件により主人公がこれまでの記憶を失うのだが、その場面では、ヒロインたちの話者表示欄も「???」になってしまう。単なるテキスト上の忘却描写だけでなく、システム全体がその忘却に加担してそれを確定的なものにしてしまっているという事実は、プレイヤーにとって非常に怖ろしいものだった。ただし、その一方で、同じように主人公が記憶を失った別のシーンでは、ヒロインたちの名前は話者欄から失われておらず、しっかりとその名をプレイヤーの眼前にも留め置いている。そしてそのシーンでは、主人公は彼等の記憶を取り戻すことに成功する。


  本作の企画は折田和鷹及び狩野修、ディレクターは最上川さとし、シナリオは春河ミライ、原画はみよし(敬称略)。



  【 攻略メモ 】
  基本的に、以下のような理解でよいと思う。

1) 序盤の選択肢を間違えると、すぐにバッドエンドになる。
2) 前半のヒロイン選択で、最も好感度の高いヒロインのルートに入る。
3) 前半のヒロイン選択を均等に(各2回以下)選択していると、後半に入らずバッドエンドになる。

4) 各ヒロインルートに入ると、最後の選択肢以降、三種のEDに分岐する。
  a) 個別ルートに入ってから、最後の選択肢で間違えた場合。
  b) 個別ルートに入ってからさらに累積する好感度が、最終的に少ない場合。
  c) 個別ルートに入ってからさらに累積する好感度が、最終的に十分高い場合。

  上記4-b)の条件を満たすには、前半のヒロイン選択で好感度を上げすぎないこと(そのヒロインを選んだ回数を3~4回までにとどめておく)。そのうえで、個別ルートに入ってからの選択肢を適宜調整すれば、4-b)のEDに入れる筈。他方、好感度を高くする4-c)に行くには、前半のヒロイン選択で目当てのヒロインだけを選んでいけばよい。